se contentus est sapiens ad beate vivendum, non ad vivendum. (9.13)
賢者が自足しているのは、幸福に生きるためであって、単に生きるためではない。(p.30)
「賢者は自足する」というストア派の言葉は、たいてい誤って解釈されている、とセネカは言う。
賢者が己に満足しているのは、幸福に生きるためであって、ただ生きるためではないのだ。原文に「ただ」に相当する文字はない。「ad beate vivendum」と副詞を欠いた「ad vivendum」が対比されているだけである。
Ad hoc enim multis illi rebus opus est, ad illud tantum animo sano et erecto et despiciente fortunam. (9.13)
実際、生きるためには賢者も多くのものを必要とする一方、幸福に生きるためにはただ健全で気高く運命を見下す魂があればよい。(p.30)
「ad hoc」は近いものを指す。この場合は「ad vivendum」、つまり「ただ生きるために」。生きるためには、賢者といえども多くのものが必要である。それはそうであろう。いくらイデア的な存在であっても、賢者は人間である。
「ad illud」は遠いものを指す。この場合は「ad beate vivendum」、つまり「幸福に生きるために」。幸福であるためには、ただ精神が健全で、気高く、運命を見下してさえいればよいのである。いかなる運命の試練に遭おうとも、精神が直立していればよいのである。
幸福に生きることはまだしも簡単だが、ただ生きることが難しいのだという気もしてくる。
これからブログの更新が増えそうだ。しかし、今のパソコン(6年半使用)では用をなさない。起動に時間がかかりすぎるし、何かする度すぐに固まる。
新しいパソコンを注文した。ネットで購入するのは2度目である。今回は初めて中古品にしてみた。割引もあって2万1000円。数年もてば十分である。
ちなみに、不要になったパソコンは、メーカーのリサイクル部門が無料で引き取ってくれる。送料も不要である。ネットで申し込むだけだ。
さて、ワードでこの程度の文章を書くにも、どれだけ無駄な時間が費やされていることか。調子が悪いと、文字を入力し変換しようとする度に「応答なし」と出てくるのだ。
私が最近あまりブログを書かなかったのは、忙しいとかものぐさになったとかいうことばかりが原因ではないのだ。
ブログを更新しようとしたら、今度はエッジが動かなくなった。本を読みながら気長に待つことにする。
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再起動を繰り返してようやく更新できそうになった。今度はワードが開かない。開いても動かない。
こんなことをしている内に、モンテーニュとセネカとプルタルコスの翻訳を規定の量読み、英仏のニュースを聞いた。ニュースの視聴にはFIREを使っている。最近はこのためにしか使わないが、すぐに起動してくれるし、固まることもないので助かっている。