私のもう一つの読書、楽しみのほかにやや多くの利益のまじっている読書、私が自分の思想と性格を規整することを学ぶ読書、そういう目的に役立つ書物は何かというと、それは、フランス語になってからのプルタルコスとセネカである。(p.365-6)
プルタルコスの「倫理論集」とセネカの「倫理書簡集」は、モンテーニュの気質にもぴったり合っていた。短い文章の集成で、互いに連絡はない。長時間の緊張を強いられることはなく、どこで終えてもよい。現在私がそうしているように、ちびちびと舐めるように読むのに向いている文章群である。
モンテーニュは彼らを直接引用するだけではない。地の文の中にも、彼らから得たものをふんだんにちりばめている。だから、自分を批判しようとする人には、少し意地悪な予防線を張ることができるのである。
私は皆が、私の鼻をはじいてプルタルコスをやっつけ、私をののしることによってセネカをののしることになればいい気味だと思う。(p.358)
それほどに『エセー』の中には彼らが入り込んでいる。
だが、それはただの模倣ではない。彼は借りてきた主題を高めようとしているのだ。
私には運命以外に、私の持ち駒の部署を決める参謀がない。夢想が思い浮かぶままに、積み重ねるだけである。だからそれらはひしめき合っていることもあれば、一列に並んでいることもある。私は、たとえどんなに乱れた歩みでも、自然な平常の歩みをみてもらいたい。私は自分をありのままに歩ませる。(p.359)
これはまた、私がこのブログでやっていきたいことでもあるのだ。たとえミニチュア版であれ『エセー』の足元にも及ばないとしても、ひたすら積み重ねていきたいのである。