comme Euripides est en doute si la vie que nous vivons est vie, ou si c'est ce que nous appellons mort, qui soit vie:
Τὶς δ'οἴδεν εἰ ζῆν τοῦθ ὁ κέκληται θανεῖν,
Τὸ ζῆν δὲ θνήσκειν ἔστι. (p.526)
かのエウリピデスも、「ティス ドイデーン エイ ゼーン トユース ホー ケクレータイ タメイーン、トー ゼーン デ トネドケイン エスティ」、すなわち「われわれが生きているのが生なのか、それとも、われわれが生と呼んでいるのが生なのか」と疑問を呈しているではないか。(p.157)
モンテーニュ『エセー』第2巻第12章「レーモン・スボンの弁護」を、ようやく半分ほど読んだ。なにしろ、この章だけで1分冊を占めるほど長大なのだ。
原文のギリシア語はだいぶ綴りがあやしいので、プレイヤード版も参照しつつ、適当に直しておいた。おそらくこれで、宮下志朗の音写とも一致していると思う。
宮下はどこでギリシア語を学んだのか知らないが、日本の一般的な教科書で習う読み方とはちょっと違う。あるいはフランス式なのだろうか。それと、トネドケインは明らかな誤りで、シグマ(σ)をデルタ(δ)と取り違えている。
この部分の訳について、宮下は注にこう書いている。「原文はギリシア語で、モンテーニュは、フランス語訳を直前に掲げているのだが、拙訳では前後を入れ替えた。出典はエウリピデス『断片』833で、5世紀の*ストバイオス『ギリシア名言集』からの孫引きである。モンテーニュの書斎の天井に刻まれていることば」。
正確には、モンテーニュのパラフレーズはエウリピデスの言葉と若干異なる。モンテーニュの「われわれが生きているのが生なのか、われわれが死と呼んでいるのが生なのか」(後半部分、宮下訳は「われわれが生と呼んでいるのが生なのか」となっているが、おそらく単純なミスであろう)に対して、エウリピデスが言っているのは、「死と呼ばれているものが生なのか、生(と呼ばれているもの)が死なのか」ということである。
since Euripides is in doubt whether the life we live is life, or whether it is what we call death is life:
Who knows but life is that which is called death,
And death what is called life?
EURIPIDES, QUOTED BY STOBAEUS
最近参照している英訳のほうが、すっきりしていてよい。
ただし、この人は古典語をかなり大雑把に訳すことが多いので、たいていの場合たいして役に立たないのだが。
そんなわけで、モンテーニュを読む際の難関の一つが古典語の解釈であるのだが、それというのも、ただ単に古典語が難しいというだけでなく、テキストの綴りも翻訳(英語であれフランス語であれ日本語であれ)も時にあてにならないからなのである。
新しいパソコンが届いた。新しいといっても中古品であるが、問題なく動いてくれる。
値段からすれば、2、3年もってくれれば十分だ。今後は数年おきに中古で買い替えるというパターンになるかもしれない。