本の覚書

本と語学のはなし

ペーパーバックほか


★J. D. Salinger『The Catcher in the Rye』(Little, Brown)
★F. Scott Fitzgerald『The Great Gatsby』(Penguin Books)
Rebecca Brown『The Gifts of the Body』(HarperPerennial)
★W. Somerset Maugham『The Moon and Sixpence』(Dover
レベッカ・ブラウン『体の贈り物』(柴田元幸訳,新潮文庫
モーム『月と六ペンス』(行方昭夫訳,岩波文庫
ヘミングウェイ老人と海』(福田恆存訳,新潮文庫
★春山昇華『サブプライム問題とは何か アメリカ帝国の終焉』(宝島社新書)


 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と『グレート・ギャツビー』は村上春樹訳を持っている。『老人と海』はペーパーバックを持っている。単に英語を学ぶのではなくて、むしろ村上、柴田、行方、福田らの翻訳術を学ぶための購入である。


 『月と六ペンス』は学生時代、初めて読み通したペーパーバックである。あまり辞書を使わず、分からないところは飛ばして読んだ。それでも筋を追うことはできたのだから、当時の私の英語力から考えても、それほど難しくはないのだろう。しかし、文章が易しいから翻訳が簡単ということにはならない。
 最後の一文はこうだ。


 He remembered the days when you could get thirteen Royal Natives for a shilling.


《この伯父は、ホイットステイブル特産の上等な牡蠣がわずか一シリングで十三個も買えた時代を覚えている世代の人だった。》


 わずか一文を訳すのにたくさんの工夫が見受けられる。
 基本中の基本だが、代名詞を代名詞で訳さない。「he」は「彼」ではなく、「この伯父」である。一般的な「人びと」を指す「you」は、日本語では姿を消す。
 英語の構文をそのまま日本語に置き換えても意味やニュアンスが伝わらない場合には、構文を変更する。「彼は〜の時代を覚えていた」などとはしない。
 数詞を原文のまま形容詞的に訳すのではなく、副詞的に変換する。「十三個の牡蠣を」などとはしない。
 「for a shilling」の感じを出すために、日本語では「わずか」を補う。
 そして、何より「Royal Natives」なるよく分からないものをきちんと調べて、説明的に訳す(注を加えることもある)。この場合は「上等な」というのが肝なのだろう。上の「わずか」とセットになっている。


 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は学生時代の友人F君が、高校のときに原文を読み通したと自慢していた。彼の語学の才能なんて私と似たり寄ったりだろうから、はったり癖を差し引いたとしても、そんなに難しくないのかもしれない。
 せっかくなので、最後の部分と村上訳を引用しておこう。


 Don’t ever tell anybody anything. If you do, you start missing everybody.


《だから君も他人にやたら打ち明け話なんかしない方がいいぜ。そんなことをしたらたぶん君だって、誰彼かまわず懐かしく思い出しちゃったりするだろうからさ。》


 私はこれまで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も『ライ麦畑でつかまえて』も読んだことがないから、青春小説という以外に作品の雰囲気がまるで分かっていない。この場合は、村上がこの小説にふさわしいと考えた文体が翻訳全体を引っ張っていっているようである。経済の翻訳なら日経新聞の文体で全部押し通すことができるし、そうするべきなのだろうが、文芸翻訳の場合には、文体は重い問題である。


 なんだか翻訳鑑賞が私の趣味のようになってきた。