本の覚書

本と語学のはなし

『フッサール 起源への哲学』

●斎藤慶典『フッサール 起源への哲学』(講談社選書メチエ
 精神的不調をはじめ幾つかの原因によって中断していた。ようやく読み終える。感想などは書けそうにない。
 印象を言えば、禅のようだ。禅問答のように取り付く島もないということではない。斎藤がフッサール哲学の射程として捕らえる現象学の最奥、充溢する空と不在の無のせめぎ合うところ、起源への遡行と必然的にその問いの解体するところ、それは、言語の限りを尽くして言語の指し示せぬところを指し示し、その途端に指し示した指を自ら切り落としてしまう禅の営みのようである。


 《世界の「起源」として指し示しうるのは「空」なのであり、すべては「空」で充満しているのである。「空」を中核に孕んだ世界が現に私たちの現実として受け取れらていること、そのような「場所」が与えられていることが、全ての出発点、すなわち「起源」だったのである。
 だが、すべての出発点であるような「そこ」(それ以外に出発する場所がないような「そこ」)が、現に・いま・ここに与えられていることの発見は、同時にそのような「そこ」(本書はそれをフッサールにしたがって「絶対的ここ」とも呼んだ)には、何か決して現れることのない次元が(すなわち、「無」が)接してはいまいか、という疑問を呼び起こす。そもそも「すべて」とか「それ以外にない」と言いうる地点とは、いかなる地点なのか。その地点においては、「すべて」はすでにその「外部」に接してしまっているのではないか。》(287-8頁)


 徹底的に「起源」を追求することは、我々を〈起源ならざるもの〉に接する地点へと導く。そこに新たな問いの次元がある。
 本書はそこで終わるが、斎藤は姉妹編として『レヴィナス 無起源からの思考』(講談社選書メチエ)を上梓している。近々読みたい。私にとって、それはある種の抵抗だと思うのである。

フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)

フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)