ずっと気になっていた『コーラン』を始めた。最近はアラビア語の発音に近い『クルアーン』という表記の方が多くなったようだが、私の読んでいる井筒訳では昔ながらの『コーラン』である。
まずびっくりするのは、ユダヤ教やキリスト教への言及の多さである。イスラム教は先行する二つの一神教と同じ根から生じたものであり、イエスも預言者の一人として数えられているということを予備知識として持っていたとしても、度肝を抜かれる。
牝牛
81[87] かくて我ら*1ムーサー*2に聖典を授与し、彼のあとも続々と(他の)使徒を遣わし、(中でも)マリヤム*3の息子イーサー(マリアの子イエス・キリスト)には数々の神兆を与え、かつ聖霊によって(特に彼を)支えた。ところが汝ら(ユダヤ人たち)は己が気にくわぬ(啓示)を携えた使徒が現れるたびに傲岸不遜の態度を示し、(それらの使徒の)あるものをば嘘つきよとののしり、又あるものは殺害した。
82[88] 彼ら(ここでまた急に二人称から三人称に移る。同じユダヤ人のことを言っているのにである)の言い草は、「何分にもわたしたちの心は割礼を受けていないので」と(心が硬くて難しいことはよくわからないという意味)。何んの何んの、己れの不信仰のゆえにアッラーの呪いを蒙った身ではないか。(まことの)信仰に入る者のなんと寥々たることよ。*4
ユダヤ教聖典およびキリスト教聖典との違いは、全てがたった一人の預言者への啓示であること。『コーラン』はアラビア語で読まなければ本当に読んだことにならないとされているが、日本語訳を通じても、神に酔える人間の陶酔的な言語であることが伝わってくるような気がする。井筒訳はキャラクターの立った文体を選択したので、パロディーのように見えてしまうこともあるかもしれないが。
解説をちょっと見てみると、マホメットが天啓に慣れてきたせいだか後期になるほど散文的傾向が強くなるのだが、現行『コーラン』は後期のものほど前に置かれるというふうに編集されているそうで、読み進めるにつれ緊張の度合いも高まって行くのだろうと期待させる。
最初の内は少しずつ進め、興が乗ってきたら一気に読んでしまいたい。