本の覚書

本と語学のはなし

【ラテン語】生への準備の段階で生に見捨てられ【生の短さ】

 今日からセネカの『生の短さについて』を始める。参照する翻訳は、引き続き岩波文庫大西英文のもの。
 ラテン語の方も最近はフランスの辞典を使っている。プルタルコスほどではないが、セネカにおいても、時々コンパクトな字引には見当たらない単語が使われる。


Maior pars mortalium, Pauline, de naturae malignitate conqueritur, quod in exiguum aevi gignamur, quod haec tam velociter, tam rapide dati nobis temporis spatia decurrant, adeo ut exceptis admodum paucis ceteros in ipso vitae apparatu vita destituat. (1.1)

パウリーヌス、死すべき身ながら、大方の人間は自然の悪意をかこち、われわれ人間は束の間の生に生まれつく、われわれに与えられたその束の間の時さえ、あまりに早く、あまりにも忽然と過ぎ去り、少数の例外を除けば、他の人間は、これから生きようという、まさにその生への準備の段階で生に見捨てられてしまうと言って嘆く。(p.11)

 書き出しの一文であるためか、翻訳も少々力が入っている感じ。英訳の方がすっきりしているかもしれない。
 人生は準備している間に過ぎ去ってしまうものである。「われわれは、人生が過ぎてしまってから、生き方を教えられます。節制に関するアリストテレスの教えにたどりつかないうちに、梅毒にかかってしまう学生がたくさんいるのです」(『エセー』1.26/25「子供たちの教育について」)とモンテーニュも言っている。私が熱心に『フレンズ』を見ているときには、もう孤独死を観念するよりないのである。


 話は変わる。
 毎日求人を見ているので、以前勤めていたところの募集も目に入る。
 2か月半で辞めた前の職場は、私の代わりの正社員が数か月後に退職し、おそらくまた次の人が雇われた。
 つい最近、パートを2人募集し始めた。求人票を見ると、現場の人数が大分少ない。内訳を正しく記入しているとすれば(かなり怪しい)、正社員はいないことになっている。
 どうなってるのか知らないが、なんだか大変そうだ。早く見切りを付けてよかったと思うのである。