セネカ『幸福な生について』を読了する。
セネカが莫大な資産を有していたことに、言行不一致との批判もあったようで、この書にはそれに対する自己弁護と思われるような文章も存在する。
あってもなくても構わないが、あるに越したことはないものが存在する。来れば拒まず、去れば追わない。主人となって、奴隷とはならない。とはいえ、あくまで自分は賢人ではなく、途上の人間である。そんなことが語られる。
下に引用したのは、中野孝次が「徳への祈り」と呼んでいる部分の最初のところ。
" Non praestant philosophi quae loquuntur." Multum tamen praestant quod loquuntur, quod honesta mente concipiunt; namque idem si et paria dictis agerent, quid esset illis beatius ? Interim non est quod contemnas bona verba et bonis cogitationibus plena praecordia. Studiorum salutarium etiam citra effectum laudanda tractatio est. Quid mirum, si non escendunt in altum ardua adgressi ? Sed si vir es, suspice, etiam si decidunt, magna conantis. (20.1-2)
「哲学者は言っていることを実践しない」。だが、現に哲学者は言っていることの多くを実践し、その誠実な心に抱いたことの多くを実践している。なるほど、彼らの言葉と行動が完全に一致するに越したことはない。彼らにとって、それ以上に幸福なことがあろうか。とはいえ、それでも、彼らの善き言葉や、善き思想に満ちた心根を軽蔑してよい理由はないのである。健全さをもたらす学問研究は、たとえ成果が得られなくとも、賞賛すべきものなのだ。険峻な山に挑んだ者が頂に到達できないとしても、何の不思議があろう。少なくとも君が立派な男子なら、壮図に敢然と挑む者を、たとえ彼が志半ばで挫折しようとも、敬意のまなざしをもって見上げるがよい。(p.173-174)
大西英文訳。正確ではあるが、ときどき付加があったり、大袈裟な言葉遣いになることがあるようだ。
「哲学者は自分が言うことを実行しない」と言うのですか。そんなことはありません。彼らは絶えざる思索の中で得た思想を語ることで、すでに十分な仕事をしています。むろん、その上さらに自分の言葉にふさわしい行動をすることができたら、それに勝る幸福はないでしょうけれども。それよりもまず、あなたには、良い言葉と良い思想に満ちた心を軽蔑する理由は何もありません。意義ある勉学にあっては、たとえ成果が得られなくとも、努力そのものが賞賛されねばなりません。険しい目標を追う人たちが山の頂上までたどりつけなくとも、なんの不思議がありますか。男である以上あなたは、偉大なものの追究に従事する人々を――たとえ彼らが墜落しても――尊敬すべきです。(p.204)
中野孝次訳。複数のドイツ語訳からの重訳である。伝言ゲームのようなものであるから、原文と逐語的に一致するわけではない。だいぶ変わっているところもある。
中野はこの「徳への祈り」をもって『幸福な生について』のクライマックスと考え、その後に続く自己弁護にはそれほど興味を持ってはいないようだ。
話は変わる。
先日、50分ほど歩いてハローワークに行き、事務正社員の紹介を受けた。比較的待遇はよい。
2日後、マイページのお気に入りに登録しておいたその求人には、「現在、詳細を閲覧できません」と表示されるようになった。求人は有効だが、検索には引っ掛からない。すでに多数の応募があったので一旦募集を停止して、吟味にかかり、めぼしい人がいなければ直ぐに求人を復活させようということだろうか。
大卒という条件付きだが、大卒の失業者なんて掃いて捨てるほどいるのだろう。また書類選考で不合格になる可能性が高い。
履歴書を印刷しようとしたら、プリンターにエラーメッセージが表示された。調べると、プリントヘッドの異常らしい。自分で洗浄すれば直ることもあるという。試してみたがだめだった。インクを替えても復旧しなかった。
諦めて新しいものをネットで注文。初めてのレーザープリンターである。モノクロ。コピーやスキャンはできない安価なものだ。トナーは家庭ごみとして廃棄できないけれど、たぶん滅多に交換する必要はないだろう。
インクジェットに比べて、はるかにきれいに印刷できる。
私が住んでいるような田舎では、履歴書は手書きに限るという人もある。
私はただでさえ経歴が多いのに、ハローワークの履歴書講座を受講してから(求職実績作りのためではあるが)、入社と退社だけを羅列する方式をやめて、書き入れる情報を増やすことにした。加えて、どんどん人間として劣化しているので、間違えずに最後まで書き切ることがどうしてもできない。手書きでないということで落とされるなら、それはもう仕方ない。
ただし、人間としての劣化はなにも手書きによってのみ暴露されるものではない。前回送った履歴書は、年が改まってから出したにもかかわらず、日付を「令和5年」にしていた(気がついたのは、今回の履歴書を作るときになってからである!)。それだけが原因ではないだろうが、門前払いの駄目を押した要因ではあったかもしれない。