本の覚書

本と語学のはなし

モンテーニュ全集8 モンテーニュ旅日記/モンテーニュ

 1580年6月22日、モンテーニュは旅立った。先ずはパリに向かい、ドイツ、スイスを通って、イタリアに行く。再びモンターニュの地に帰ってきたのは、翌年の11月30日である。1年2か月と8日の長い旅であった。
 モンテーニュが旅好きであったのは事実だが、この大掛かりな旅行の目的はただの物見遊山ではなかったらしい。はっきりとは何も書かれていないけれど、何か外交的な使命があったのだろうと推測されている。

イタリア語

 出版を目的とした旅行記ではない。原稿が発見されたのは、死後180年ほど経ってからである。最初の幾枚かは既に失われていた。
 最初の半分は、同行した秘書のような使用人が書いている。なぜか知らぬが、ローマで彼は暇を出された。

 ここまでわたしに付き従い、こんなに立派に書き続けてくれた男に暇をやってしまったので、しかもこんなにまで書き進められているのを見ては、どんなにそれが面倒でも、これからは自分でつづけてゆかなければならない。(p.140)

 その後はモンテーニュが自ら記録している。その内の半分はイタリア語である。

 これから少しこの国〔イタリア〕の言葉をしゃべってみることにしよう。今とくにわたしは最も純粋なトスカーナ語が語られているらしい地方を、とりわけ近隣の訛りによって少しもそれを汚さなかったトスカーナ人たちの間を、旅しているのであるから。(p.212)

 トスカーナ語は、言うまでもなく、ダンテが『神曲』を書いた言語である。

 わたしはふと、フィレンツェの言葉を勉強し、本格的にそれを学んでみる気になった。わたしはそれに相当の時間と努力を費やしたが、大して進歩しなかった。(p.255)

 フィレンツェの言葉もトスカーナ語の一種である。これが現代イタリア語のベースとなっているようである。

 ここではフランス語が語られている。それで今までの外国語とはおわかれする。わたしはこの外国語をやすやすと使ってきたが、かなり好い加減なものである。それは、始終フランス人と一緒にいたので、勉強らしい勉強もできなかったからである。(p.290)

 モン・スニ峠の辺りで、イタリア語ともお別れである。ラテン語で育ち、フランス語で生活していたモンテーニュにとって、イタリア語の習得はそれほど難しくなかったであろうが、目指していた水準までには届かなかったようである。
 とは言え、ダンテやアリオストは原語で読んでいたはずであるし、旅行中の会話にもほとんど不自由はしていなかったらしい。彼の要求はよほど高かったのである。

ローマ教皇拝謁とローマ市民権

 1580年12月29日、モンテーニュは時の教皇グレゴリウス13世に拝謁している。

跪いた四人は、そのまま法王の足もとまで膝行して、床にひれ伏し、おみ足に接吻した。モンテーニュ殿は、法王がそのとき少しおみ足の先を上げられたと、語られた。〔中略〕法王は愛想のよいお顔つきで、デスティサック殿には学問と徳に励まれるよう、モンテーニュ殿に対しては、これまでずっと教会に対して抱いてきた敬虔な気持ちと熱心なキリスト教徒である王[すなわちフランス王]への奉仕の気持ちをこれからも持ち続けるようにと勧められ、また、自分もできる限り汝等の役に立とうと仰せられた。(p.124-5)

 この部分はまだ秘書が書いている。


 取り上げられていた『随想録』が戻ってきたときには、教会の博士たちの意見に従って懲戒を受けた。訂正は良心に任せられたが、何もしなかったようである。

というのは運命フォルチュヌという語を用いたり異端の詩人の名を掲げたりユリアヌスを弁護したりしたこと、また祈りをする者はその際不徳な傾向を脱却していなければならないというような悪口、それから単純な死刑以上のものは残虐行為だと言ったり、子供たちはどんなことでもできるように教育しなければならぬと述べたり、その他いろいろのことはわたしの意見に相違なく、それはわたしが誤謬だとは毛頭思わずに書いたものであることを潔く認めるけれども、一方他の諸点では、懲戒者がわたしの考えを理解しているとはとても信じられないからである。(p.153)


 『随想録』3.9にも書かれているが、ローマ市民の称号を得たときには、いたく喜んでいる。

 だからわたしはローマ市民の称号を得ようとして全力を尽した。〔中略〕允許状は一五八一年三月十三日に発せられ、四月五日に手交された。まがう方なき允許状、法王の令息でソラの公爵ジャコボ・ボンコンパーニの得られたものと形式もお賞めの言葉も寸分の相違なきものであった。それは空なる称号である。しかし、わたしはそれを頂戴して、非常な喜びをうけた。(p.163-4)

温泉と結石と美女

 旅行中、モンテーニュは度々温泉に逗留している。
 モンテーニュは結石を患っていた。温泉が結石に効果があるのかどうか知らないが、飲んだり浸かったり、熱心に行っている。
 宿や設備や泉質のこと、排出された石のことが事細かに記録されている。


 モンテーニュは女好きだったはずである。各地で美人の割合を気にしている。
 ルッカの温泉で舞踏会を催した。賞の選考には婦人方にも加わってもらったが、モンテーニュは基準についてこう説明した。

選択に当たっては美しさ可愛らしさを重視した。そして舞踏のおもしろさは、ただ足の運びばかりでなく、身のこなし、風情、美しさ淑やかさによることを、婦人たちに納得させた。(p.219)

 ところが、ある受賞者が受け取りを拒否した。

ただお嬢さんの一人が、進呈された賞を拒んで、どうかもう一人のかたに差し上げて欲しいとわたしに申し出た。だがわたしは、そうするのを適当と判断しなかった。その娘さんは可愛らしい部類に入らなかったから。(p.219)