本の覚書

本と語学のはなし

牧歌・農耕詩/ウェルギリウス

 一旦ラテン語の原文は中断し、翻訳でウェルギリウスルクレティウスの全作品を読むことにした。
 全部と言っても、前者には『牧歌』『農耕詩』と『アエネーイス』、後者には『事物の本性について』だけしかない。筑摩書房の世界古典文学全集には『アエネーイス』と『事物の本性について』が一緒に収められているから、あと1冊で終了する。


 『牧歌』は牧人たちの歌合戦など、いかにものどかな雰囲気の詩集ではあるが、ウェルギリウス自身も巻き込まれた土地没収の社会問題も取り扱われており、単純な理想郷の話ではない。
 遅筆のウェルギリウスは、凝縮され、わずかな痕跡としてのみ見出されうるような思想をそこここに吐露しているようで、油断ならぬところがある。
 『農耕詩』の最後には、彼の矜持が示されている。

わたしはかつて牧人の歌を楽しみ、青年客気の勇をもって、
ティーテュルスよ、枝を広げた山毛欅ぶなの木の下のおまえを歌った者。


 『農耕詩』は農業指南書として、穀物、樹木、家畜、蜜蜂について歌う。
 イタリアが農業危機に陥っていた頃、マエケーナスの勧めで書かれたと言う。農業に携わっていたわけではない詩人は、先人たちの書物に学んだ。ヘシオドスの『仕事と日々』、アリストテレスの『動物誌』、アラートスの『天文詩』、カトーの『農業論』、ウァローの『農業読本』、ルクレティウスの『事物の本性について』。そして、独自の理想的な農民を描き出した。
 モンテーニュはこの一連の詩を韻文中の白眉としている。


 蜜蜂の巻で、ブゴニアというエジプトの風習が伝えられている。牡牛を窒息死させ、皮の上から肉がドロドロになるまで棒で突く。それを小屋に放置しておくと発酵が進み、やがて何もないところから蜂が生まれてくると言うのである。一体これは何かを象徴する話なのであろうか。
 直接関係はないが、この巻を読みながら絶えず考えていたのは、シャーロック・ホームズはどうして養蜂家になったのだろうかということだった。

ルクレティウス

 『農耕詩』の第2歌490行以下に次の句が見える。

事物の根源を知り、すべての恐怖と、
容赦なき運命と、アケローン〔冥界の川〕の絶ゆることなき喧騒とを、
足下に踏み敷くことのできた人は幸いなるかな。

 この幸いな人とは、ルクレティウスのことであると考えられている。
 しかし、ウェルギリウス自身は哲学に生きることはできなかった。続けて、こう言っている。

だが田園の神々を――パーン〔牧神〕や老いたるシルウァーヌス〔森の神〕や、
ニンフの姉妹を知る者もまた幸いなるかな。

 そしてその幸いが歌われる。純朴な農民たち(多分に理想化されているだろうが)の幸いであり、そこに心を寄せるウェルギリウスの幸いである。


 ちなみに、オウィディウスの『愛の歌』(1.15.23-24)には、「大地を滅ぼす一日がもしいつかあるとすれば、その日こそルクレティウスの崇高な歌の滅びるときであろう」という言葉があるそうだ。

三度~三度~

 『アエネーイス』第4巻のディードーの死の描写の中に、2行続けて冒頭にter(三度)を用いるところがある、と昨日書いた。
 今一度、岡・高橋訳を書き抜いておく。

三度、身を起こそうと、肘を支えに体を持ち上げたが、
三度、床に転び伏した。どこを見るのか定まらぬ目で高き
天なる光を求め、それが見つかると深く嘆息した。

ter sese attollens cubitoque adnixa levavit;
ter revoluta toro est oculisque errantibus alto
quaesivit caelo lucem ingemuitque reperta. (4.690-3)


 同じような表現が『農耕詩』第4巻にもあるのを発見した。

三たび、彼女が燃えさかる炉に澄明な神酒ネクタルを注ぎかければ、
三たび、焔は輝きを増し、天井に届かんばかりに燃え上がった。

ter liquido ardentem perfundit nectare Vestam,
ter flamma ad summum tecti subiecta reluxit. (4.384-5)

 これは儀式の様式としての三度であろう。三度神酒を注ぐと、それに応じて焔も三度燃え上がった。吉兆である。
 ディードーの場合も、実際にあったであろうというよりは、そうあるべき様式美として描かれているように思われる。彼女の所作は、そのまま歌舞伎になりそうである。