Aeneadum genetrix, hominum divomque voluptas,
alma Venus, caeli subter labentia signa
quae mare navigerum, quae terras frugiferentis
concelebras, per te quoniam genus omne animantum
concipitur visitque exortum lumina solis: (1.1-5)
試しにルクレティウスの『事物の本性について』の冒頭を読んでみた。
ウェルギリウスをやめようというのではない。ウェルギリウスの3作品にルクレティウスを加えると、ちょうど良い分量になりそうに思うのである。
ルクレティウスはウェルギリウスも敬愛していたし(『農耕詩』にその告白が見える)、モンテーニュは彼の詩を最も多く引用しており(主として韻文を引用するモンテーニュにとって、この思想詩はすこぶる便利であったのだろう)、韻文としての評価もほとんどウェルギリウスやホラティウスに並ぶものとしている。
近代物理学の誕生に与えた影響も計り知れないようである。
アェネーアースの子孫〔ローマ人〕の母、人間の、また神々の喜び、ものを生みふやす愛の神よ、あなたは天空の滑らかに流れる星の下に、舟の通う海にも、ゆたかに実る大地にも、生命をみなぎらせて下さるし、ありとあらゆる生物の類が懐胎され、生まれいで、太陽の光をあおぎ見るのは、これみなあなたのおかげであるから、
岩波文庫の樋口勝彦訳(タイトルは『物の本質について』と訳されている)。
樋口は、まえがきの中で、これは昔の素朴な自然哲学である、その論説的内容を叙事詩の詩形に無理矢理押しこめたのは窮屈なことである、と言って、大して評価する素振りを見せない。解説の中では、「ルクレーティウスの作詩技巧に就いては、詳細は省くが、後輩のウェルギリウスにくらべれば、甚しく見劣りがする」とはっきり書いている。
どうも、あまり好きではなかったのかも知れない。
樋口の注によれば、ルクレティウスの唯物論的見解からは宗教は否定されるが、ここでウェヌスに呼びかけているのは単に叙事詩の形式を踏んだに過ぎず、ウェヌスを生殖作用の擬人的表現とみなすとのことである。
冒頭を読む限り、これが拙いかどうかは分からないが、古めかしいことは直ぐに見て取れる。Aeneadum と divomとは、いずれも複数属格であるが、初級文法で習う標準的な形ではない。
昔『事物の本性について』を読みかけたことがあったようで(2ページほどでやめているが)、私には珍しく付箋にメモを書いて貼り付けてある。数行先に出てくる patefactast に苦労したのだろう。「719 patefactast 母音又は m-final の次の est は e を取り、前の語にくっつける」*1とある。
これもまた、古風なのかどうかは知らないが、過去にウェルギリウスを読んでいて遭遇したことのない形であるように思う。少なくとも私の記憶にはない。
取りかかるとしても随分先のことになるだろうが、ルクレティウスをウェルギリウスとともにラテン語の読み物に加えることは、今もう決定しておこう。
*1:これは Gildersleeve & Lodge の文法書719を見よということで、今そこを見てみると、メモに写したとおりのことが書いてある。