本の覚書

本と語学のはなし

【読書メモ】翼が新たに生えてくる【反時代的考察】

わたしが誠実という点でショーペンハウアーと同等に見ている、むしろ彼より高い地位を与えている著作家はただ一人しかいない。それはモンテーニュである。実際、こうした人間がものを書いてくれたおかげでこの世に生きる楽しみが増えたのだ。少なくともわたしは、このうえなく自由で力強いこの精神を知って以来、生きがいの一つが増えたと言っていいので、彼がプルタルコスについて語っている言葉はそのまま現在の私の心境を言い現わしているのである、「彼に一瞥を投げると、たちまちわたしは脚か翼が新たに生えてくるのだった。」もしこの世を安らかに住みなすという課題を出されたなら、わたしは彼と結んでその解決に当たるだろう。(p.228)

 ニーチェ『反時代的考察』の第三篇「教育者としてのショーペンハウアー」からの引用である。
 漸く春が近づいた。もう雪かきをしなくてよい。職場まで自転車で通うことが出来る。時間と体力が削り取られることはない。何事も捗らなかった冬が終わろうとしている。
 雪に閉ざされていると、取捨選択の再考へ誘惑される。ドイツ語を捨てるところまでは思い切ることが出来ないにしても、ニーチェの全貌を知るために要する膨大なエネルギーは節約して然るべきではないか。全ての書が一冊に収まるビューヒナーもしくはルター聖書で満足するべきではないか。
 しかし、ニーチェモンテーニュ評を読んで、和解の季節が訪れたように思う。私は、図式化されたニーチェに、つまり世間に出回っているほとんど全てのニーチェ像にあまり魅力を感じないのだけど、まさにニーチェをそのようなものとして理解しないことにこそニーチェを楽しむ鍵があるのではないか。


 ちくま学芸文庫版の注釈を紹介しておく。
 モンテーニュの言葉は『エセー』第三巻第五章「ヴェルギリウスの詩句について」から引かれたものであり、原文は「je ne le puis si peu raccointer, que je n’en tire cuisse ou aile.」となっている。原二郎訳は「私も、ほんのちょっと彼を訪ねても、彼から股とか翼とか(の肉)を失敬せずに帰ることはない」。
 ところが、ニーチェは「kaum habe ich einen Blick auf ihn geworfen, so ist mir ein Bein oder Flügel gewachsen.」と誤訳している。失敬するどころではなく、自らに「精神的翼」が生えてくるという、何ともあまりに「ドイツ的」解釈なのである。
 これをマリー・バウムガルトナーと言う人が指摘した。ニーチェの返信にはこう書いてあるそうだ。「私の解釈同様、従来のドイツ語訳も誤っている。ただしその誤りは私とは全く別な仕方である。……われわれの本文の《彼がプルタルコスについて言っていること》を削除し、《彼を一瞥するやいなや》以下を私自身に由来するように続けよう……。」「また《脚》を除去し、《翼》で満足しよう」(1875.4.7 マリー・バウムガルトナー宛て書簡)。
 ニーチェモンテーニュの原文から直接訳したのかどうか知らないが(私は原文を見ていなかったという方に賭けたいが)、彼は誤訳そのものはあまり気にしていないようだ。モンテーニュとその敬愛するプルタルコスとの関係がどうであれ、ニーチェモンテーニュを一瞥するややはり天翔る翼が自分の背中に生えてくるのを感じるというのである。


 『反時代的考察』に戻ると、冒頭に引用した部分の直ぐ後に続けて、ニーチェはこうも言っている。

ショーペンハウアーは、誠実さのほかにさらに第二の特性をモンテーニュと共有している。人の心を晴れやかにする本物の明朗さがそれである。(p.228)