本の覚書

本と語学のはなし

シャーロック・ホームズ全集 第1巻 序曲/コナン・ドイル

 第1巻はベアリング・グールドによる序文のみ(これが第2巻の半ばまで続く)。
 ホームズの実在を仮定する話になると、ちょっとついて行けなくなる。真剣に学問の真似事をしているのは分かるのだが、学問としてはどうしても牽強付会の説のオンパレードにならざるを得ないところがあるし、たとえ道理にかなったことであったとしても、その研究を推し進める偏愛を理解することが出来ない。


 126ページにホームズ家の紋章が3種類示されている。シャーロキアンが作ったものである。
 その内の一つについて、「モットーは JE PENSE, ALORS JE SUIS(私は考えるがゆえに存在する)。〔訳注〕デカルトの有名な言葉の一部を変えたもの」と説明されている。
 デカルトの言葉は、ラテン語では Cogito, ergo sum. であり、フランス語では Je pense, donc je suis.である。そのフランス語の donc を alors に変えたのである。
 ニュアンスを変えるためであったろう。Alors は donc と同様に「それゆえ」を表すこともあるが、普通は「その時」とか「その場合」という意味の単語である。紋章のモットーは、「思惟する存在は実在する」などと言う哲学的なことを言いたいのではなく、「私は思惟する、そのかぎりにおいて私は存在する」とこそ主張したいのではないだろうか。
 事件のないときのホームズが廃人同様であり、時に薬物に依存すらしていたことを考えるとき、この紋章の考案者は忠実なカルテシアンたることを放棄する誘惑に勝てなかったのだろう。


【語学】
 一つの言語に一つの専門。当面それでよい。と言うか、そうでなくてはどれも満足に学ぶことは出来ない(一言語一専門でも多すぎるくらいだ)。英語とフランス語にはサブの専門も考えていたが、諦めることにした。


 英語の専門はジェイン・オースティン
 『エマ』の翻訳を読み始めたときは鼻持ちならないような気がして途中で放棄することも考えたのだが、自他共に認める明敏な観察者のエマはどうやら常に勘違いばかりしているようで、ジェインとともに私はエマに愛着を持ち始めている。
 シャーロック・ホームズやブラウン神父は翻訳を読むだけにしておく。原文に取りかかるとすれば、オースティンを一通り学んでから。


 フランス語の専門はモンテーニュ
 フローベールがメインのはずであったが、先に原文を読み始めたユマニストが思っていた以上に面白そうなので、止める訳にいかなくなってしまった。
 ただし、古いフランス語に時々戸惑うこともある。第1巻第1章に à pied という表現が出てくる。普通「徒歩で(馬でも馬車でも車でもなく)」という意味であるが、関根秀雄も原二郎も「裸足で」「はだしのまま」と訳している。
 プレイヤードの巻末に小さなグロッサリーが付いているけれど、PIED の項目はあっても、A PIED については何も語っていない。2種類の英訳ではどちらも on foot となっていて、これも普通は「徒歩で」という意味にしかならないように思われる。
 あるいは、モンテーニュが利用した種本の記述には「裸足で」となっていたものであろうか。しかし、貴婦人たちの名誉は傷つけないという直前の言葉と、彼女たちを裸足で行かせると言うことの間には、何ほどか矛盾もある。
 16世紀フランス語辞典でも買わないことには、決着を付けられそうにない。


【家庭菜園】
 寒くなった。畑に出るのが億劫である。