気になっている求人があると先月末に書いたが、昨日ようやくハローワークに行ってきた。既に十数人が応募しているという。問い合わせてもらったところ、年齢制限の融通は利かせないとのことだ。その場で終了した。
Biblia Hebraica Stuttgartensia
- 作者:Elliger, K.
- 発売日: 1990/06/01
- メディア: ペーパーバック
וַיֹּ֡אמֶר קַח־נָ֠א אֶת־בִּנְךָ֙ אֶת־יְחִֽידְךָ֤ אֲשֶׁר־אָהַ֨בְתָּ֙ אֶת־יִצְחָ֔ק וְלֶךְ־לְךָ֔ אֶל־אֶ֖רֶץ הַמֹּרִיָּ֑ה וְהַעֲלֵ֤הוּ שָׁם֙ לְעֹלָ֔ה עַ֚ל אַחַ֣ד הֶֽהָרִ֔ים אֲשֶׁ֖ר אֹמַ֥ר אֵלֶֽיךָ׃
神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
モリヤは後にエルサレムと同一視される。ソロモンの神殿はこの上に建てられたという。
歴代誌下3章1節には「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた」と書かれている。
「焼き尽くす献げ物」は「全焼のいけにえ」とか「燔祭」とも訳される。動物を焼いて神に捧げることだが、その原意は煙を立ち上らせることである。
ここで「ささげなさい」と訳されている箇所は、原文では「彼(イサク)を上らせなさい(ハアレーフ)」となっている。「焼き尽くす献げ物として(レオラー)」と同じ言葉であり、同じ意味であることが示されている。
参考のために。
ヤコブの手紙2章21-24節。
神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
ローマの信徒への手紙4章1-3章。
では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
ちなみに、「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」と書かれているのは創世記15章6節であって、イサクの供犠の箇所ではない。