本の覚書

本と語学のはなし

手紙は重々しく力強いが【ギリシア語・ラテン語】

 コリントの信徒への手紙二10章10-11節。

ὅτι αἱ ἐπιστολαὶ μέν, φησίν, βαρεῖαι καὶ ἰσχυραί, ἡ δὲ παρουσία τοῦ σώματος ἀσθενὴς καὶ ὁ λόγος ἐξουθενημένος. τοῦτο λογιζέσθω ὁ τοιοῦτος, ὅτι οἷοί ἐσμεν τῷ λόγῳ δι’ ἐπιστολῶν ἀπόντες, τοιοῦτοι καὶ παρόντες τῷ ἔργῳ.

quoniam quidem « epistulae - inquiunt - graves sunt et fortes, praesentia autem corporis infirma et sermo contemptibilis ». Hoc cogitet, qui eiusmodi est, quia quales sumus verbo per epistulas absentes, tales et praesentes in facto.


 新共同訳。

わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。


新約聖書 訳と註〈3〉パウロ書簡(その1)

新約聖書 訳と註〈3〉パウロ書簡(その1)

 使徒言行録にバルナバはゼウスと呼ばれ、パウロはヘルメスと呼ばれたとあるように(14章12節)、パウロの外見はそれほど威厳のあるものではなかったかも知れない。実際彼は病弱でもあった。
 しかし、ヘルメスと呼ばれているのである以上、朴訥な話し方をする人間であったとするのは当たらないかも知れない。「話もつまらない」と訳されている語は、「無」を動詞化したものであり、話に説得力がない、中身がないと言っているようである。
 田川建三は、「この書簡の文章からも露骨にわかるけれども、パウロはむしろ格好よく次から次へとおしゃべりにまくしたてるような人だっただろう。この人の、よく考える以前に次から次に言葉がぽんぽん出て来るような文章の書き方からして、訥弁だったなぞ、まずありえないことである」(p.504)と言っている。