上巻を読む限りでは、かなり失望した。
イスラム教の神アッラーは、ユダヤ教の神ヤハヴェ*1と同一だとされ、したがってキリスト教の神とも同じものである。
だからユダヤ教聖典のこともキリスト教聖典のことも、少なくともその一部はよく勉強している。最初は啓典の民として両教の信者にも大いに好意を寄せていた。しかし、ずいぶん馬鹿にされたのだろう。次第にユダヤ教徒には憎悪を燃やすようになる。キリスト教徒はまだしも好かれていたが、それも最後には敵意に変わる。
そんなわけで、大部分が両聖典の我田引水的な解釈と、両教徒への呪詛で埋まっている。新約で愛に目覚めた神が、アラビアの沙漠に引越した途端、再び妬みの本性を幾倍にも増幅して取り戻したかのようである。
女 155[156]-156[158]
彼ら*2は信仰に背きマルヤム*3について大変なたわごとを言った。そればかりか「わしらは救世主、神の使徒、マルヤムの子イーサー*4を殺したぞ」などと言う。どうして殺せるものか、どうして十字架に架けられるものか。ただそのように見えただけのこと。もともと(啓典の民の中で)この点について論争している人々は彼について疑問をもっている。*5彼らにそれに関して何もしっかりした知識があるわけでなし、ただいいかげんに憶測しているだけのこと。いや、彼らは断じて彼を殺しはしなかった。アッラーが御自分のお傍に引き上げ給うたのじゃ。アッラーは無限の能力と知恵をもち給う。
女 169[171]
これ啓典の民よ、*6汝ら、宗教上のことで度を過してはならぬぞ。アッラーに関しては真理ならぬことを一ことも言うてはならぬぞ。よくきけ、救世主イーサー、マルヤムの息子はただのアッラーの使徒であるにすぎぬ。また(アッラー)がマルヤムに託された御言葉であり、(アッラー)から発した霊力にすぎぬ。*7されば汝ら、アッラーとその(遣わし給うた)使徒たちを信ぜよ。決して「三」などと言うてはならぬぞ。差し控えよ。その方が身のためにもなる。アッラーはただ独りの神にましますぞ。ああ勿体ない、神に息子があるとは何事ぞ。天にあるもの地にあるものすべてを所有し給うお方ではないか。保護者はアッラーお独りで沢山ではないか。
改悛 30
「ウザイル*8は神の子」とユダヤ人は言い、「メシアは神の子」とキリスト教徒は言う。どうせ昔の無信仰者どもの口真似して、あんなことを口先だけで言っているにすぎぬ。えい、いっそアッラーが彼らを一気に撃ち殺し給えばいいに。まことに、なんと邪曲な人々であることか。
戦争の記憶も生々しい中で受けた啓示であるせいもあるだろうけど、非常に好戦的な言葉も目立つ。先行する啓典とは違い、時代の幅もなければ書き手の多様性もない。神に陶酔するただ一人の預言者のモノフォニーである。恐らくは預言者のパーソナリティーが全体のトーンに影響しているのだろう。