本の覚書

本と語学のはなし

アシジの聖フランシスコの小さき花(続)/石井健吾訳

 聖フランシスコの聖痕についての考察、兄弟ジネプロの伝記、兄弟なる太陽と造られたすべてのものの賛歌、兄弟レオによる兄弟エジディオの伝記、兄弟エジディオのことばから、補足された章、といった内容。
 この時代の過度の神秘主義にはついて行けないが、何でも人にあげてしまう「兄弟ジネプロの伝記」は読み物として面白い。「兄弟エジディオの伝記」では神秘体験をあからさまに誇るエジディオも、「兄弟エジディオのことばから」を読めば言っていることは案外まともである。「すばらしいものを見ていない人は、ささいなことが、すばらしいものであるのを信じないものです」(p.242)。伝記としてまとめるときに、中世的なバイアスがかかりやすいのかもしれない。


 「補足された章」はフランシスコ会の亀裂をうかがわせる文章ばかりである。フランシスコは口ぐせのように言っていた。

わたしは、あなたがたにつぎの三つのことば、すなわち、知識へのあくことのない欲求に反対する聖なる〈単純〉、また悪魔が、いつもさまざまな外的事物への関心や心づかいによってやめさせようとはかっている〈祈り〉、そして、主イエス・キリストの花嫁で、しかもわたしの花嫁でもある、清貧自体ではなしに、彼女への愛と熱情にあたる〈清貧への愛〉をすすめます。(p.394-5)

 翻訳技術が未熟で言葉のかかり具合が判明でないところもあるが、知識を排して虚心坦懐に、徹底的に貧しさを追求しつつ、祈りの内に神を見ることを目的とするのが、本来のフランシスコ会の姿のようである。
 そのため、学問を重んじたある兄弟は、フランシスコに呪いをかけられ、「燃えさかる硫黄の塊が彼の体に降りかかり」、「ひどい悪臭の中で息絶え、しかも、その魂は悪魔の手中に落ち」たという。
 あるいはフランシスコに現れた幻や、弟子たちの見た夢の中などで、幾度もフランシスコ会の堕落してゆく様子が語られるのである。

 学問に対する警戒がフランシスコ会の原初形態だとするならば、私はもはや妄想フランシスカンではありえないだろう。神秘主義も確かにカトリックの一つの伝統ではあるが、その一方で、たとえばアンセルムスのような「知解を求める信仰」というのも良き伝統としてあるはずだ。信仰に至るかどうかはわからないが、私の傾向はまず知ることから始めなくては満足しないのである。


 初期のフランシスカンにおいては、それほどマリアが強調されることがないようだ。彼らはイエスに首ったけなのである。増えてゆく会員を養うのに困ったとき、フランシスコは言った。

あなたが、どのように工夫しても、必要なものをまかなえないというのですから、まず、聖母の祭壇をはいで裸にし、そこについているさまざまな飾りを売り払ってください。このことばは信じてよいでしょう。神のおん母については、祭壇が美々しく飾られることで、ご自分のおん子がないがしろにされるより、ご自分のおん子の福音が守られることで、ご自分の祭壇が裸にされる方が、むしろ本望でしょうから。主はきっと、ご自分がわたしどもにお貸しくだされたものを、ご自分の母上にお返しするため、誰かをおつかわしになるでしょうから。(p.394)

 マリアの名前自体がほとんど登場しないのだけど、出てきたとしてもわずかな例外のぞいて、熱烈なマリア信仰を示す文言はない。