本の覚書

本と語学のはなし

マタイを始める

 継続可能かどうかも検討しないまま、さっそく「マタイによる福音書」を原文で読み始めた。このところこういう見切り発車が多い。確かに聖書のギリシア語は難しくはないから、取りかかるのは何も考えずに取りかかれる。無茶なノルマを自分で課さない限り、挫折することはなさそうに思える。しかし、日本語訳でさえ幾度も途中で投げ出してきたのだから、問題は語学的な難易度ではない。

 なぜこれまで新約聖書を原文で読まなかったのだろうか。学生時代は古典文学を読むので手一杯だった。社会人になってからは、そもそも長らくギリシア語から離れていた。再開に際して、当然やさしい聖書をテキストに選ぶこともできたはずだが、そうはせずプラトンホメロスにこだわった。聖書のギリシア語は、学生時代に愛した古典ギリシア語からの逸脱であり、いかなる蜜の味もしないように思われたのである。

μνηστευθείσης τῆς μητρὸς αὐτοῦ Μαρίας τῷ Ἰωσήφ, πρὶν ἢ συνελθεῖν αὐτοὺς εὑρέθη ἐν γαστρὶ ἔχουσα ἐκ πνεύματος ἁγίου.

母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。(マタ1:18)

 今さらコイネーの乱れだの、セム語法の影響だのを、価値の問題としてあげつらうつもりはない。古典では普通しない表現の見本として、引用してみた。
 最初のコンマまでは、いわゆる絶対属格と呼ばれるものである。和訳では「母マリアはヨセフと婚約していたが」にあたる部分だ。ところが、マリアは次に出てくる本動詞の主語でもある。主文において明確な役割を持っている要素は、古典の語法では絶対属格を用いて別枠で表現されることはない。主文におけると同じように、主格におけばそれでよいはずなのだ。
 しかし、新約聖書ではしばしばこういう絶対属格の用法が出てくるらしい。