me patris Anchisae, quotiens umentibus umbris
nox operit terras, quotiens astra ignea surgunt,
admonet in somnis et turbida terret imago ;
me puer Ascanius capitisque iniuria cari,
quem regno Hesperiae fraudo et fatalibus arvis. (4.351-355)
だからいつでも雨雲で、夜が大地をおしかくし、
異変を告げる火のような、星ども上がるたびごとに、
アンキーセスわが父の、心配そうな亡霊が、
夢にあらわれわたくしに、警告したりおどしたり、
されるばかりか同様に、おさないわが子アスカーニウス、
この子のことを思っても、使命をとげずにいられない。
この子にわたしはイタリアに、国を建てて宿命の、
土地いとなむと話したが、もし出来ないとなるならば、
かわいい子にも怪しからぬ、嘘をわたしはいうことに、
なるのがどうして忍ばれよう。
常に二つのものを対比的に並べながら組み合わせている。まず父アンキーセスと息子アスカーニウス(一行目と四行目の出だしを見よ)。父の方では、一行目から二行目にかけてquotiensが二つ並び、三行目では動詞が二つ並ぶ。息子の方では、四行目、動詞が省かれている代わりに主語が二つ並び、五行目の関係節の中では動詞の支配する奪格が二つ並ぶ。
ネストルがμήτεを重ねてアガメムノンとアキレウスの両方に語りかけたのはまだしも素朴なやり方かもしれないが、こうした対比はレトリックの大切な要素である。
これほどまでに工夫を凝らしてアエネーアースがいかなる議論を自分に有利なように運ぼうとしているかというと、カルタゴの女王ディードーを捨てることがいかに正当であるかということなのである。彼がこれを語っている相手は、もちろん当のディードーだ。
泉井久之助の訳は七五調ではあるけど、かなり正確である。ただ、この場面はfraudo (英語のcheat)を随分ていねいに説明的に訳しているために、なんだか野暮ったくなっている。「されるばかりか」以下のところ、英訳ではもっと簡潔だ。
to me comes the thought of young Ascanius and the wrong done to one so dear, whom I am cheating of an Hesperian kingdom and predestined lands.