本の覚書

本と語学のはなし

万葉集


 講談社文庫の『万葉集 全訳注原文付(一)』を読み始めた。原文は白文と読み下しが併記され、注釈と現代語訳もついており、事典が別冊で編まれているという、至れり尽くせりの文庫である(本編4冊、事典1冊)。
 気の向いたときに少しずつ読み進めようと思う。全部で約4500首あるというから、1日10首読んだとしても1年以上かかるが、慌てる必要はない。中学生の時、犬養孝の万葉入門(たしか新潮文庫に収められていた『万葉のひとびと』と『万葉のいぶき』だった)を読んだ折のみずみずしい感動を思い出しながら、ゆっくり味わいたい。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鷗立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は (1.2)

大和には多くの山があるが、とりわけてりっぱに装っている天の香具山、その頂に登り立って国見をすると、国土には炊煙がしきりに立ち、海上には鷗が翔(かけ)りつづけている。美しい国よ、蜻蛉島大和の国は。


 舒明天皇の作とされる歌。「とりよろふ」は語義不明だが、ここでは草木の繁茂を装いとみて解釈している。「蜻蛉島」は「大和」に接続し、収穫の豊かな地域(飽ツ島)の大和となる。全体として難しいところのない素直な歌なので、意味は取りやすい。
 気になるのは「うまし国」の部分。「うまし」は形容詞の終止形のように見えるが、それがなぜ体言に接続するのか。「うまき国」とか「うましき国」と連体形を使うのが正しいのではないか(「うまし」にはク活用とシク活用の両方がある)。
 辞書で「うまし」を引くと語法の説明があった。「上代においては形容詞が体言を修飾するときは語幹(シク活用は終止形相当の形)から続いた」という。たとえば「うまし国」(シク活用の終止形相当の形)とか「うま酒」(ク活用の語幹)という形がそれである。「うまし」の項に載っているのだからこの語に特有の法則なのか、説明に「形容詞」とあって「うまし」と特定していないところを見ると一般的な法則なのか、判然とはしないけど。

山越しの風を時じみ寝る夜おちず家なる妹(いも)を懸けて偲びつ (1.6)

山越しに吹く風は絶え間なく、夜はつねに家の妻をしのぶことだ。


 「時じ」は定まった時のないこと。「おちず」は欠かさずということ。
 通常「〜を〜み」の構文(「潟を無み」のように理由を表す)を作るとき、「み」の前に置かれる形容詞は語幹の形を取ると説明されるが、ここでは終止形のように見える。「時じ」はもともと体言に接尾辞の「じ」をつけて作った形容詞だから、語幹だけ取ると元の体言になってしまって意味をなさないからか、ここでもシク活用が関係しているのか。よく分からない。
 細かいことにはこだわるまいと思うが、暫くは平安朝以降と異なるこういう言葉遣いに敏感に反応してしまうだろう。


 結局、遅まきながら古典にどっぷりと浸ってしまうのか。