しかし、人生が途中で断ち切られても、幸福な人生のために私に欠けているものは何もなかった、と言うだろう。なぜなら、私は貪欲な希望が最後の日として私に約束した彼方の日に自分を合わせてきたのではなく、毎日をいわば人生最後の日と見なしてきたのだから。〔中略〕身体は小さくとも人間として完全でありうるように、生きた時間は短くとも人生は完全でありうる。(p.147-8)
このような考えはセネカの著作のいたるところで反復される。そして、遠くモンテーニュにおいてもこだまするのである。
書簡96より。
それにしても、私たちが呻いたり恐れおののいたりすることは、すべて人生にかかる税金だ。それを免除してもらおうなどと、わがルーキーリウスよ、君は期待も要求もしてはならない。君は膀胱の痛みに眠りを奪われ、悲しげな手紙はずっと悪くなる一方だと伝えてきている。もっと端的に言えば、君は命の危険を恐れている。だが、どうだ、君は長生きを願っていた時に、今の状態をも願っていたことを知らなかったのか。(p.201-2)
書簡101より。
さあ、否定してみたまえ、必ず死なねばならぬことは自然が与えた大いなる恩恵だということを。〔中略〕そして学ばねばならない、いずれはこうむらねばならぬことをいつこうむるかには何の違いもないということを。重要なのは、いかに長く生きるかではなく、いかに善く生きるかだということを。(p.235)
書簡102より。
私が楽しんでいたのは、霊魂の不滅について考究すること、いや、誓って言うが、それを確信することだった。なぜなら、偉大な人々がこの実に喜ばしい見解を論証するというよりも、むしろ約束してくれているのだから。彼らの意見に私は喜んで従おうとしていた。これほどの大きな希望に身を委ねようとしていたのだ。私はもうわれながら嫌気がさしていた。もうこの台無しにされた一生の残りの時間など取るに足らぬものと考えて、かの無限の時の中へと移動して永遠の生を手に入れようとし始めていたのだ。(p.237)
最後の言葉は、自死に魅入られていたということであろうか。セネカは決して自殺を推奨する人ではないが、自らも言うとおり賢人ではなく、途上にある人であって、常に自分の信条のとおりに考え、意欲したわけではない。
台無しにされた一生とは何であろうか。コルシカに流された後に呼び戻され、ネロを補弼して栄華を極めたセネカの人生は、彼自身の欲望もそこに寄り添ったではあろうが、尋常でない嗜好を持った権力者たちの意志に振りまわされたものであった。それを嘆いていたのであろうか。
死を恩恵と考える人が、霊魂の不滅を信じるということは、あり得ることであろうか。不滅の霊魂の世界では、この世で我々を悩ませるあらゆることが免除されているのだろうか。永遠の、無時間的な世界では、煩いなど起こりようがないということだろうか。それは無に帰することと何が違うのだろうか。
宇宙の法則に合致すること。ただそれだけでよいのではないのか。それがたとえ霊魂の消滅を意味するものであったとしても。
原典講読では、もうすぐ『マルキアに寄せる慰めの書』が終わる。そうしたら、『倫理書簡集』を最初から読んでいきたい。
テキストにはかなり問題があるようだ。翻訳の底本では、しばしば読み方を確定していない箇所がある。その場合、ビュデ版などを参照して訳している。そういうところでは、ロウブ叢書もまた別の読みをとっているかもしれない。注意深く読まなくてはならない。