本の覚書

本と語学のはなし

永平広録巻1


 『道元禅師全集第10巻』を読み始めた。いよいよ「永平広録」である。道元自身が日本語で著した「正法眼蔵」に対して、「永平広録」は道元の説法等を弟子たちが集め漢文で記録したもの。
 重要なのは分かっているが、中国の伝統的な語録の体裁をとっているのでとっつきにくかった。しかし、最近は原文までつぶさに目を通すという従来の方針を棄て、一旦はほぼ全面的に読み下しを信じることにしたので、だいぶ負担は減っている。それでも新書と違って一気に読み通すわけにいかない。読了するまでには少し時間がかかる。


 「真字『正法眼蔵』」を読んでいた時に紹介した丙丁童子来求火のエピソード*1を取り上げた上堂があった。「真字『正法眼蔵』」では生の素材そのままであったが、「永平広録」では当然ながら道元の解説がつく。前後を引用してみよう。

【読】15上堂。云く。仏種、縁より起こり、仏法、頭(はじめ)より起こる。良縁に遇うて蹉過(さか)すべからず。応当(まさ)に修業すべし。修業には折伏(しゃくぶく)あり、接取あり、這箇(ここ)にあって蹉過すべからず。応当に辧道(べんどう)すべし。辧道には修業あり、功夫あり。一朝に打徹せば、万法円成す。若也(もし)未だ徹せざれば、万法蹉過す。


【訳】上堂して言われた。仏法は正縁、すなわち真正の善知識と頭(はじめ)、すなわち正因である発菩提心との遭遇によって成就するものである。したがって、正縁、立派な善知識に遇ったならば、誤ることなく修業しなければならぬ。修業には破斥する面と、摂取する面とがあるが、ここにおいても誤ることなく辧道しなければならぬ。辧道の中に、修業し、工夫を重ねるのである。このようにして、一旦、自己が悟りに徹すれば、すべてのものが自己と同じく悟りにいたるのである。が、自己が悟りに徹していなければすべてのものが自分とくいちがうのである。(『全集10』16-7頁)


 抜き書きしていて嫌になってきたが、ここまでが前段。次にエピソードを挟み、最後にまた道元の言葉が続く。

【読】師云わく、前来もまた丙丁童子の来たりて火を求むと。後来もまた丙丁童子の来たりて火を求むとなり。前来、甚(なん)としてか悟らず、流落し、後来、甚としてか大悟し、旧窠を脱落せる。会せんと要すや。良久して云く、丙丁童子来たりて火を求む。露柱燈籠、幾(いくばく)か明を惜しまん。埋んで寒灰にあり、模(さぐ)れども未だ見えず。点じ来たって吹滅(すいめつ)す再生の行。


【訳】師(道元)は言われた。前も丙丁を司る童子が火を求めるという答えであり、後も丙丁を司る童子が火を求めるという答えである。前にどうして悟らないかと言えば、分別知解にとどこおったからである。後にどうして大悟し、分別知解の穴蔵を脱け出ることができたか。君たちはこの違いを会得したいと思うか。しばらくして言われた。〔学人が自己とは何ぞやと問うことは〕丙丁を司る童子が火を求めることである。この道理は、法眼が示してくれただけでなく、丸柱や燈籠がこれを明らかにするのに何の惜しむところもなかったのである。ただそれが埋もれて、灰の底に沈んでいるので手模りしても見えなかっただけである。これが掘り起こされたのは、火をつけまた吹き消す法眼のすぐれたはたらきにより、玄則の再生が生まれたのである。(『全集10』18-9頁)


 さて、これで分かっただろうか。恐らくは、分かったとしてもまだまだ不十分ではあるけど。