本の覚書

本と語学のはなし

記憶


 幼いころの記憶がほとんどない。振り返る習慣がないから、驚くほど風化が進行している。
 兄たちに縄とびで鞭打たれ続けた日のこと。復讐するために自殺しようと思ったこと。東京から実家に戻るとき、断片的にだが、突然思い出して恐怖した。知らずに封印している過去がまだあるだろう。
 兄たちがランドセルを隠し、私がそれを母に訴えている間に、兄たちは元に戻す。私は嘘つきとしてこっぴどく制裁を受ける。医者に禁煙を指示された父が隠れて喫煙していても、母は全く気がつかない。この人の見せかけだけの愛情は、子どものころから知っていた。だから何事も相談も報告もしたことがない。
 「父が私を愛さなかったように、私も父を愛したことがなかった」。父の死んだ日、日記にそう書くような気がしている。泣きやまない孫を、足で部屋の隅に押しやる父の姿を見たことがある。前にも見た光景のような気がした。あるいは、「父が人を愛さなかったように、私も人を愛すことができなかった」と書くべきかもしれない。
 家庭というのは、温かい記憶に包まれているものなのだろうか。私には温かい家庭というのは形容矛盾でしかない。