本の覚書

本と語学のはなし

きっかけ

 人の子は、その栄光のうちに、多くの天使を引き連れて光栄の座につく。そして、諸国の人々を前に集め、ちょうど牧者が羊と雄やぎを分けるように、羊を右に雄やぎを左におく。そのとき王は右にいる人々に向かい、〈父に祝せられた者よ、来て、世の始めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。あなたたちは、私が飢えていたときに食べさせ、渇いているときに飲ませ、旅にいたときに宿らせ、裸だったときに服をくれ、病気だったときに見舞い、牢にいたときに訪れてくれた〉と言う。すると義人たちは答えて、〈主よ、いつ私たちはあなたの飢えているときに食べさせ、渇いているときに飲ませ、旅のときに宿らせ、裸のときに服をあげ、病気のときや牢に入れられたときに見舞ったのでしょうか〉と言う。王は答える、〈まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである〉。(マテオ25.31-40)


 昔カトリックになったきっかけを作ったマタイの一節。当時は新共同訳だったと思うが、引用は今日読んだバルバロ訳から。その後近くの教会に行って神父の話を聞き、一週間キリストの夢を見続けて受洗したのだけど、今では仏教徒でないのと同じようにキリスト教徒でもない。