本の覚書

本と語学のはなし

Das Kapital


 最近の日記を見返すと、人様に公開しているにもかかわらず、全く読んでもらう気のない文章だと思う。人と交わらず、単調な生活を続けているので、そういうことを気にしなくなってしまったようだ。
 しかし、他に書くことも、他の書き様も、今は見当たらないから、今日も相変わらず専ら自分のためだけのメモを記しておく。


 マルクス資本論』第一版序文の今村仁司ほか訳(筑摩書房)と向坂逸郎訳(岩波文庫)。

 An und für sich handelt es sich nicht um den höheren oder niedrigeren Entwicklungsgrad der gesellschaftlichen Antagonismen, welche aus den Naturgesetzen der kapitalistischen Produktion entspringen. (p.12)

 資本制生産の自然法則から発生する社会的対立には、高い発展段階に達したものもあれば、より低い段階にとどまっているものもある。本書で問題にしているのは、その発展段階の程度ではない。(マルクス・コレクションⅣ7頁)

 それ自体としては、問題は、資本主義的生産の自然法則から生ずる社会的対立の発展程度の高いか低いかということにあるのではない。(Ⅰ14頁)


 第一巻は「マルクス・コレクション」の翻訳だけを参照するつもりだが、an und für sich というヘーゲル哲学的な語が出てきたので、まさか「即且対自的に」と訳したりしてないだろうかと期待して、向坂訳も見てみる。残念ながら「それ自体としては」だった。しかし、意味は必ずしも明瞭ではない。日本語だけ見ると「問題それ自体」と読めるが、それは違うだろう。おそらく、「発展段階の高低それ自体」ということだと思う。今村ほか訳でこの語がどこに行ったのかは、よく分からない。
 翻訳スタイルの違いは鮮明で、これも面白い。


 『資本論』にしろ、『国家』や『告白』にしろ、大部の著作だから、いつ終わるともしれない。しかし、無理せず細々と続けていこう。
 一番困るのは、いつ読んでもいいし、読まなくてもいい、というものを手近に置いておくと、常に催促がましい顔を見せることである。それが嫌で、いったんは英仏以外もう止めようと決心したのだが、そうすると時々発作のような第三以下外国語熱が襲ってくるのだ。