οὐδὲ προσήκει τέχνῃ ἄλλῳ τὸ ξυμφέρον ζητεῖν ἢ ἐκείνῳ οὗ τέχνη ἐστίν, (342B)
また、技術が探求する利益とは、その技術がはたらきかける対象にとって利益になること以外にはないはずだからね。(上61頁)
久し振りにプラトンを読んだら頭がこんがらがる。最初、何気なくἄλλῳはτέχνῃを修飾するものと思っていて(性が違うけど)、訳を見るとそうではないらしいから、次に動詞ζητεῖνが要求する与格かと考えてみる。しかし、よくよく見れば、ここでは名詞になっているけど、τὸ ξυμφέρονはもともと動詞であって、それが与格を支配するのだと思い当たる。そしてἐκείνῳと比較されているのだとようやく見えてきたところで、今度はοὗという属格の関係代名詞が、分からなくはないが何だかしっくり来なくて消化不良。あとでほぼ同じ表現が出てきたところで、英訳では「for that of which it is the art」となっているのを確認して、やっと得心が行く。
その上でもう一度訳を見ると、若干ニュアンスが違うような気がしなくもない。私には「技術はその対象にとってのみ有益である〔自己目的的に有益なわけではない〕」ということを言っているように見えるのだ。
ギリシア悲劇を原文で読む計画はあっけなく取り下げた。今はもうギリシア語に力を入れることはできないのだから、おとなしく語彙の少ないものを読んでおこうと思い直したのである。そこで再びプラトンの『国家』を引っぱりだす。
同じ理由で、ドイツ語はマルクスの『資本論』に替える。ラテン語はアウグスティヌスの『告白』のまま。
そんなわけで、第三から第五外国語については、プラトン、アウグスティヌス、スピノザ、マルクスばかり読むことになりそうだ。