本の覚書

本と語学のはなし

The Moon and Sixpence


 『月と六ペンス』を読んでいたら、解釈に迷う文章に出会った。行方訳と中野訳を見てみると、私が迷ったのも無理はなかったようだと分かる。
 引用の前に人物の相関関係を簡単に書いておく。ブランチ・ストルーブ(中野訳ではブランシュ)は凡庸な画家ダーク・ストルーブの妻であるが、夫を裏切り天才画家ストリックランド(当時はまだ無名、モデルはゴーギャン)の元に行き、最後は絶望して自殺する。一人称の書き手は作家である。

 When Strickland suggested that in her surrender to him there was a sense of triumph over Dirk Stroeve, because he had come to her help in her extremity, he opened the door to many a dark conjecture.


 ここだけ読んで正確な訳を作れる人はいないはずなので、先ずは行方訳を。ページは岩波文庫のもの。

 彼女〔ブランチ〕がストリックランドに身を任せたのは、絶望の淵にあったときダークが救ってくれたことへの復讐なのかもしれない、とストリックランドが前にほのめかしたことがある。もしそうであるならば、人間について暗い想像をせざるを得ない。(行方訳,277頁)


 いつもならここで「ふむふむ、なるほどね」と唸って終わるのだが、たまたま昨日借りてきた中野訳では別の解釈をしていたので紹介しておく。ページは新潮文庫のもの。

 ブランシュが身をまかせたのは、とりも直さず僕がダークに勝ったことだ、なにしろ僕は、あの女がいちばん困っているときに助け出してやったのだからなと、ストリックランドがそんなふうなことをそれとなく言ったことがあるが、だとすれば、いろいろ暗い憶測もできないわけではない。(中野訳,255頁)


 「triumph」というのは、ダークに対してブランチとストリックランドのいずれが勝利したことなのか。ブランチの危機に彼女を救ったのはダークなのかストリックランドなのか。
 今日は断然行方の肩を持ちたい。
 ストッリクランドは以前に何をほのめかしたのか。もちろん小説中に書いていないことをここで持ち出したと考えてもよい。しかし、少しさかのぼればストリックランドのこんなセリフを見つけることができる。

 「あの女〔ブランチ〕はローマのある侯爵家で住み込みの家庭教師をしていたんだが、そこの息子があいつをたらし込んだのだ。あの女は相手が結婚してくれるものとばかり思い込んだ。だが実際には、いきなり邸から追い出されたのさ。妊娠していたし、ブランチは自殺を図った。ストルーブ〔ダーク〕がその彼女を見初めて結婚したのだ」(行方訳,256頁)


 そして、こんな言葉に「僕」ははっとする。

 「女は、男が自分を傷つけた場合には相手を許すことができる。ところが、男が自分のために犠牲を払った場合には、相手を許せないのだ」と言ったのである。(行方訳,257頁)


 中野訳ではどうしてこの記述を無視するのだろうか。ストリックランドは凡庸なダークを歯牙にもかけないのに、なぜその妻を寝取って勝利を感じなければいけないのか。しかも、彼女ののっぴきならない危機を利用したとのだとしたら(そのような事実は小説中に全く言及されていないが)、それが勝利と呼べるものなのか。直ぐ後に人間の複雑な心理(subtleties)は測りえないものだという「僕」の感想が続くが、一体他人の妻を寝取ることに作家が驚くほどの内面の秘密があるものだろうか。
 語学的なことを言えば、たしかに代名詞の取り方は難しい。「he」が2回出て来て指示する人間が違うとなると、解釈は文脈に頼るしかないのかということになる。しかし、最初の「he」はthat節の中で直近の人物を受けたものだろうし、次の「he」は主節に戻ってこの文章本来の主体(従属節で主語であったストリックランド)を指示すると考えれば、そういう法則が英語にあるかどうかは知らないが、論理的な代名詞の使い方と言えるのではないだろうか。