本の覚書

本と語学のはなし

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』


●J.D.サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳,白水社
 「誰かさんと誰かさんが麦畑」というあの歌すら私はよく知らないのだけど、あの歌の初めのところのイメージだけでもう『ライ麦畑』は『ダフニスとクロエー』みたいなブコリックな青春恋愛ものと決め付けて、ずっと読まずに済ませてきた。学生時代の友人のF君はこの作品がとにかく好きで、高校時代には原書でも読んだと言っていた。彼がいいと言うものが私の趣味に合うはずはないので、彼の話はいい加減に聞き流し、ますますもって読む必要はないと判断するようになった。
 本に読むべき時期があるのだとしたら、やっぱり間違いなく十代に読むべき本なのだろう。しかし、老人として生まれてきたような私の青春時代は、『キャッチャー』を読むには枯れ過ぎていたかもしれない。まあ、でも田園の純朴な恋愛なんかでは全然なくてよかった。今なら文句なく愛するという訳にはいかないし、妹のフィービーが登場するあたりから読むのが嫌になってきたのだけど、考えてみればF君はちょっとロリコンっぽかったのだろうなと妙に納得して楽しんだ。だって、F君はドイツ語で少女を意味するMädchen(メートヒェン)という単語が、昔の彼女のメーチャンというあだ名に似ているからということで萌えていたのだし、斉藤由貴のファンだったし、大学に入って最初に好きになったクラスメートは斉藤由貴に似た福島の陰険な女だったし(いつまで経っても抜けない福島弁が可愛いらしいのだ!)、その後も友達から奪ったという彼女の事を聞けばどうやらロリコン魂をくすぐるような幼顔の人だったらしいのだ。
 全く『キャッチャー』のことを書いていないが、一度読んで損はないとは本当に言える。ただ、モノローグが嫌いな人は退屈してしまうかもしれない。


 「本書には訳者の解説が加えられる予定でしたが、原著者の要請により、また契約の条項に基づき、それが不可能になりました。残念ですが、ご理解いただければ幸甚です」という訳者の言葉が最後に添えられている。この言葉を加えることは許してもらったのだろうか。
 それはともかく、私は訳者の思い入れたっぷりの長い解説が好きではないので(そのせいで未だに亀山訳の『カラマーゾフ』が読めない)、原著者に拍手を送っておいた。ところが、文春新書から『翻訳夜話』の第二弾として『サリンジャー戦記』という本が出版されていて、その中に訳者解説を収めるという荒業を使ってきたので、第一弾も読んでいることだし、次はしぶしぶこれに取り掛かる。