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友人の全部が死んでしまわないため【ラテン語】

Confessions, Volume I: Books 1-8 (Loeb Classical Library)

Confessions, Volume I: Books 1-8 (Loeb Classical Library)

  • 作者:Augustine
  • 発売日: 1912/01/15
  • メディア: ハードカバー
告白録 (キリスト教古典叢書)

告白録 (キリスト教古典叢書)

 『告白』第4巻6章11より。

Nam ego sensi animam meam et animam illius unam fuisse animam in duobus corporibus, et ideo mihi horrori erat vita, quia nolebam dimidius vivere; et ideo forte mori metuebam, ne totus ille moreretur, quem multum amaveram.

たしかにわたしは、わたしの魂と彼の魂は二つの身体に宿る一つの魂であった、と感じていました。
わたしにとり生が恐怖になったのは、半分の魂で生きることを望まなかったからであり、死をいたく恐れたのは、おそらくあれほど愛していた友人の全部が死んでしまわないためだったのです。(p.116)

 死んだ友とアウグスティヌスは、体は物理的に二つに分けられていても、魂においては一体であると感じていた。それ故、友が死んでからは、生きるにしてもそれは半分の状態で生きることを意味し、死ぬにしてもそれはなおアウグスティヌスの内に生きていた友の完全なる死を意味した。どちらも恐ろしいことである。
 宮谷訳には、最後のところに注釈が付けられていて、「アウグスティヌスは晩年、この箇所の叙述に行き過ぎがあったと、反省している(『再考録』二・六参照)」とある。
 「行き過ぎ」とは何だろう? 反キリスト教的であるということだろうか(当時のアウグスティヌスはまだキリスト教徒ではなかったが)?


 気になって、『再考録』のテキストを読んでみた。今は大概の古典のテキストはネットで読める時代である。ありがたい。

In quarto libro, cum de amici morte animi mei miseriam confiterer, dicens quod anima nostra una quodammodo facta fuerat ex duabus: Et ideo, inquam, forte mori metuebam, ne totus ille moreretur, quem multum amaveram. Quae mihi quasi declamatio levis quam gravis confessio videtur, quamvis utcumque temperata sit haec ineptia in eo quod additum est: forte.

 簡単に訳しておく。「第4巻で、友の死について、わたしの魂の悲惨さを告白したとき、わたしたちの魂は、二つであったものからどうにかして一つになったと言いました。そして、『死をいたく恐れたのは、おそらくあれほど愛していた友人の全部が死んでしまわないためだったのです』と書いたのです。しかしこれは、重い告白と言うより、なんだか軽い弁論のようです。『おそらく』を加えて、その馬鹿らしさが幾分和らげられたにしても」。
 この辺りでギリシア神話オレステスを持ち出してきたり、ホラティウスオウィディウスを意識してみたりして、異教的な型の中に生の感情を押し込め、巧みな弁論術を開陳して悦に入ってしまったことが、後から振り返って惜しいことのように思われたのだろうか。
 キリスト教思想の上から許しがたい記述だった、などと回顧しているわけではなかった。


 『告白』の本文に戻って、文法の確認。「et ideo mihi horrori erat vita」の部分。
 ここには二つの与格が使われている。先ず「mihi」が「私に」で、次の「horrori」が「恐怖に」である。
 サン・スルピス会の『ラテン文法』を見ると、「原因となる」を意味する「esse, fieri」は人と事物をともに与格に置く特別の構文になると書いてある。
 例文を引用しておく。

Tua pigritia est "mihi" "dolori".
君の怠惰は私にとって悲しみのもとである。(私の悲しみの原因は君が怠惰であるということだ。)(p.117)

 ここもこれとほとんど同じことで、「生きるということが私にとって恐怖の原因になった」ということを言っている。逆説的な言葉であるから、次に理由が示されている。次に死を恐れると言って、またも凝った理由が開示される。
 確かにまあ、これは「行き過ぎ」なのかもしれない。