本の覚書

本と語学のはなし

イエスという経験/大貫隆

なぜ史的イエスを学ぶのか

 史的イエスを問うことはキリスト者であることと両立可能だろうか。
 大貫は原理主義に抗してこの本を書き始めた。キリスト教の「標準文法」の運用は、「標準文法」そのものからは導き出されない。「標準文法」の根拠づけの関連の解明が必要である。そのためには、1人の預言者として生きた生前のイエス(史的イエス)の言動と最期を弟子たちがどう経験したのかを歴史的に知ることがどうしても不可欠なのである。
 つまり、大貫にとって、史的イエスと教義とは互いに相反するものなのではない。それどころか、たとえ実際のイエスが我々の信じるイメージとはかなり違ったものであったとしても、教義を生きるには(教義の誤った運用をしないためにも)必ず学ばねばならないものであるのだ。

エスは神話的思考の古代人である

 サタンが天から墜落する様をイエスは目撃した。この時から、イエスの目に世界は全く新しい相貌を表す。世界は晴れ上がったのである。
 サタンが追放された天上では既に祝宴が始まり、アブラハムやイサクやヤコブがその席に着く。イエスの説く「神の国」は宴会のイメージとして語られる。これがルート・メタファー1*1であり、イエスが娼婦や徴税人や「罪人」などの被差別者らと食事を共にしたことの根底にもこのメタファーがあって、これを意味づけていたのである。
 そしてイエスは天の父を発見する。それまでのユダヤ教的な威厳に満ちた、遠いところにある神ではなく、慈愛に満ち近くにいる父である。イエスはその父に向かって、幼児が父に向かって純真に呼びかけるように、「アッバ」と呼びかけたのである。この「アッバ」父なる神がルート・メタファー2であり、父と子のたとえや子供の祝福はこれに由来する。

 イエスは「神の国」の新しいイメージのネットワークを編み上げ、それを生きてゆく。
 例えば病者の治癒*2。その一挙手一投足と共に、天上に始まっている「神の国」が地上に広がっていくのである。

死と復活

 ガリラヤでの宣教が実を結ばないまま、イエスエルサレムに上京する。「神の国」の中心がエルサレム神殿ではないことを宣言するためであった。そう大貫は考える。
 しかし、ここでも成果は上がらない。その上、神殿を壊して3日後に手で作られたのではない別の神殿を作って見せる(すなわち「神の国」が到来する)などとうそぶいたというのだ。
 そのようなことは起こりそうになかった。マルコによれば、それから4日後に最後の晩餐がある。なお「神の国」の到来を信じながらも、迫りつつある死に意味が見えなくなってきて、身もだえしながらゲッセマネで最後の祈りを祈る。弟子たちが待ちきれず眠り込むほどに長いその祈りは、「アッバ」父なる神の意志を尋ね求める必死の闘いであった。
 ここに、イエス自身の生においてただ一度だけ2つのルート・メタファーが合体する。

 イエスは死んだ。絶叫を残して死んだ。それは神への懸命な問いであった。イエスにとっても意味不明の謎の死であったのだ。

 イエスは復活した。イエスが謎として残した死の意味を、ペトロを筆頭とする弟子たちは、今日旧約聖書と呼ばれるユダヤ教の聖書を導きの糸として、必死に解明しようとした。そして「分かった」。その時、イエスは復活したのである。
 イエスがサタン墜落の幻を見た時のように、イエス復活の幻を見た弟子たちには、世界全体が変貌し、イエスが新しい相貌で現れてきた。
 こうして未来への展望が開け、過去が読み直され、原始キリスト教が誕生する。必然的に生前のイエスのイメージ・ネットワークは組み替えられ、「標準文法」が成立していくのである。

エスの時間理解

 過去は未来へ先回りし、そこから現在に向かう。イエスの「今」においては、過去と未来が一つになっている。
 これが「神の国」の理解から得られる、イエスの時間論である。大貫はこれを「全時的今」と呼ぶ。その系譜はヨハネ福音書ヘブライ人への手紙、アウグスティヌス、そしてベンヤミンへと辿ることができるという。
 「全時的今」が我々に持ちうる最大の救済力は切断力である。個人レベルでは、日常の時間(クロノス)の線状的連続性を、国家などの集団レベルでは、それの持つ「大きな物語」、すなわちそのアイデンティティを担保しようとする救済史や摂理史の線状的連続性を切断する力である。

最後に「神の国

 「神の国」が現在の我々に持つリアリティを4点挙げる。
 (1) 神は細部に現れる。「神の国」は農村の小さな宴会としてイメージされていた。
 (2) 「いのち」はかけがえない。「神の国」はつまるところ「いのち」のことであった。
 (3) 神は無条件に赦す。その愛が人間のエゴイズムによって阻まれてはならない。
 (4) イエスは神の名を引き合いに出さず、自分の名前と責任において発言する。

 もちろん史的イエスなどと言うのはどこまで真実性を担保できるものか分からないものである。大貫の場合も、意識するとしないとに関わらず、自身の信仰を放棄せざるを得ないような結論は避けるべく、慎重に理論を構築しているのかもしれない。
 例えば田川建三のように、「神の国」などイエスにとってはどうでもよかったと考えることも不可能ではないだろう。全く不可能なことを強弁するほど田川の頭が悪いとも、底意地が悪いとも考えることはできない。
 ただ、私としては、大貫の説明は割と腑に落ちることが多かった。私にもまた(カトリックのではあるが)教義が染みついていて、そこから脱することはなかなか難しいという事情に過ぎないのかもしれないが。

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イエスという経験

イエスという経験

  • 作者:大貫 隆
  • 発売日: 2003/10/25
  • メディア: 単行本

今後の和書

 読みかけの本が3冊ある。
 マクグラスの『キリスト教神学入門』。あと180ページくらいだが、A5版で上下2段組みなので普通の本1冊分くらいは優にある。
 スピノザの『神学・政治論』。なるほど新訳は読みやすい。普通の哲学書のような抽象的、思弁的難しさもない。聖書に関心のない人にはお勧めできないけど。
 メッツガーの『図説ギリシア語聖書の写本』という古文書入門にも手を付けてしまった。1、2か月かけてゆっくり読む。あるいは眺める。

神学・政治論(上) (光文社古典新訳文庫)

神学・政治論(上) (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:スピノザ
  • 発売日: 2014/05/13
  • メディア: 文庫
ギリシャ語聖書の写本

ギリシャ語聖書の写本

  • メディア: 単行本

 これからはキリスト教に哲学・思想を織り交ぜていきたい。
 キリスト教と言っても、ゴリゴリの神学は私の性に合わない。文献学と教義学がせめぎ合う辺りの新約聖書学を中心にしながら、教会史と思想史を学ぶ。
 思想は大貫隆が注目するベンヤミンにも挑戦したい。独文の授業で短文を読んだことがあるのだが、さっぱり理解できなかった。当時巷に出回っていた翻訳も、誤訳でないところを探す方が難しいくらいの代物だった。途中で放棄する可能性大だが、ポイントくらいは掴んでおきたい。

 日本の古典文学はまた休止している。余裕がない。

*1:特にこの言葉の説明はないけど、根っこにあるメタファーということだろう。

*2:今日の科学に照らして奇跡の有無を考察する必要はない