本の覚書

本と語学のはなし

異端審問/渡邊昌美

 あまり気分のいい内容ではないが、それを別としてもちょっと読みにくかった。

 異端というのは、キリスト教の洗礼を受けたにもかかわらず、その信仰を捨てたと見做される人々のこと。有名なのものとしては、アルビジョア十字軍で虐殺されたグノーシス的二元論のカタリ派、清貧運動そのものとしてはフランシスコのそれと大差ないワルドー派、フランシスコ会から分かれて異端化したベギン派、切迫した終末論を説く千年王国派などがある。
 アルビジョア十字軍の終了した頃から異端審問の制度化が進み、十四世紀前半、『薔薇の名前』にも描かれたドミニコ会士ベルナール・ギーの頃に完成する。圧倒的な権力をもって、手当たり次第民衆を焼き殺していたかのようなイメージがあるが、当初は審問する側にも相当の危険が伴ったものらしい。
 ある時は、ドミニコ会の行き過ぎに対して民衆が国王へ陳情しようとするのを、フランシスコ会士ベルナール・デリシューが斡旋し、代弁した。「現今の異端審問をもってすれば、使徒ペテロもパオロも異端として断罪されるだろう」(p.152)とは、この時の言葉であるらしい。ただし、異端審問官になったのはドミニコ会士だけではなく、フランシスコ会からも選任されている。

 スペインではピークが遅れてやってきた。十五世紀末にアラゴンカスティリャが合併してスペイン王国ができ、レコンキスタによってイベリア半島からイスラムが掃討された。異端審問は世俗の権力の協力がなくてはできない。極刑はカトリックが自ら執行するのではなく、ただ彼らは「世俗の腕」に任せるだけだ。しかし、ここに自ら異端審問を主導するカトリック王国ができたのである。
 イスラム教徒やユダヤ教徒は迫害を受け、逃亡するのでなければキリスト教徒に改宗するしかなかった。ところが、その改宗が表向きに過ぎないと言って、今度は異端審問にかけられた(スピノザの先祖もこうしてスペインからポルトガルへ、ポルトガルからオランダへと逃れたのであった)。
 代表的な異端審問官はドミニコ会士トルケマダ。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に出てくる大審問官のモデルともされる。彼はキリストをそれと知り、分かりすぎるほど分かっていながら、異端として断罪するしかないのである。

 異端審問もよく理解できないが、魔女狩りはもっと分からない。次は森島恒雄『魔女狩り』(岩波新書)を読む。これも憂鬱な読書になりそうだ。