本の覚書

本と語学のはなし

信じる気持ち/富田正樹

 ひと口にプロテスタントと言っても、みな一様の考え方や信仰を持っているわけではない。聖書を文字通り信じて進化論を認めない人もいるし、現代人の感覚として許容できる範囲に信仰を限定し解釈し直すという人もいる。
 富田正樹は後者の方。疑うことを信条とする彼は、大胆に伝説や信ずるが故の脚色を解体する。マリアは処女ではなかったし(つまりイエスはヨセフの息子である)、イエスは「神の子」であると信じられたところの人間である。

 ですから、イエス自身が、自分が神の子だと思っていなかったとしても、そういうこととは関係なく、彼の示した愛と自己犠牲の生き様・死に様のなかに、神の姿が現れているのではないかという意味で、キリスト者は彼を「神の子」あるいは「子なる神」、「見える神」と呼ぶのです。(p.35)

 イエスは徹頭徹尾人間であるが、その業の内には神の働きがあったとしか考えられない、という風にしか私には読めないが、著者は同じページの後の方で「イエス・キリストは人間となった神であり」と言っている。どのような思考の飛躍でこの断絶を飛び越えたのかはよく分からない。

 カトリックのある程度固定した教義に慣れ親しんでいると、これをキリスト教と称してしまって大丈夫なのかと、どぎまぎしてしまう。宗教ではなく、倫理であってはだめなのか、とも思う。
 だが、こういう人たちの時として不信仰にまで至るかのような自由な思考には、触れて行かなくてはならない。