本の覚書

本と語学のはなし

鷗外歴史文学集(二)/森鷗外

 注釈を付けているのは日本史が専門の藤田覚という人だが、解題の中で鷗外の歴史小説の書き方についてこんなことを指摘している。

 ところが鷗外の場合、私たちがいう参考史料で筋書き・構図をつくり、一次史料を「史料の自然」を壊さない範囲で用いるという手法であるらしい。鷗外の「歴史其儘」の「歴史」とは、歴史研究における参考史料が描く歴史であり、「史料」とは、伝承や実録物などの参考史料というべきものであるといえる。そのため、依拠した史料の描く「歴史」にはかなり忠実に、「歴史其儘」に作品を作り上げている。もちろん、作品と依拠した史料のズレが、作品解釈のうえで重要な論点を生むことになるが。このように鷗外の「歴史其儘」を理解すると、鷗外作品と史実のズレをとりたてて問題とすることには多少の違和感を覚える。

興津弥五右衛門の遺書
 鷗外が初めて書いた歴史小説乃木希典の殉死が大正元年九月十三日。同じ月の十八日に初稿が『中央公論』に渡されている。
 後に、新たに手に入れた資料に基づき、弥五右衛門の殉死の時期は十年早められ、現主君の許可を得た華々しい切腹へと書き換えられる。

阿部一族
 茨木のり子が女学生の時に散文のすごさを教えられたという作品。『興津弥五右衛門』とほぼ同じ頃、同じ熊本での、同じく殉死を扱った作品。こちらは阿部弥一右衛門の殉死後に、その一族が藩への反逆者として退治されてしまう。
 依拠した史料にはかなり忠実であったが、その史料が歴史そのままではないため、この物語も史実とは大きく離れてしまっているようだ。

佐橋甚五郎
 「小山の城の月見の宴、城将甘利四郎三郎の寝首をかいた当年の美少年『左橋甚五郎』は家康を鼻の先であざ笑ふて、浜松を逐転して、窃かに朝鮮に往きて、慶長十二年に朝鮮国の使者となつて来朝して、済ました顔で家康に謁見して帰りたる奇人。意地強気すね者。流石の家康も警戒したる人物。その一代の奇しき運命の物語」。
 鷗外自身が『意地』につけた広告文である。

護持院原の敵討
 護持院原というのは今の神田錦町の皇居寄りの辺りのようだ。父の仇を討つべく、息子とその叔父はあてもなく全国を経巡り、途中息子は姿を消す。ところが仇は江戸にいた。叔父は江戸に戻り仇を捕獲し、娘のりよを呼び出し、護持院原にて本懐を遂げさせる。
 家督はりよが婿を取って継ぐ。鷗外は書いていないが、仇討の後に姿を現した息子は、隠居させられたそうである。

大塩平八郎
 月報に寄せた関川夏央の文章では、この物語を大正政変と関連させつつ、こう言っている。

 『阿部一族』で戦国時代のセンスと道徳の終焉を描いた鷗外は、『大塩平八郎』では幕藩体制の終焉を描いた。それは新時代のやむを得ざる到来を実感した鷗外の心境のしからしめたところであり、旧時代人としての深い感慨の発露であった。それは、今日、四十歳以上の日本人が味わっている深い感慨、「戦後」と高度成長と「冷戦下の平和」への懐旧に、一面ではたしかに通じているのである。

 そうなのだろうか?

 附録で鷗外は、「平八郎の思想は未だ覚醒せざる社会主義である」という。また平八郎蹶起の密告のごときを当時は返忠と呼んだことについて、「これに忠といふ名を許すに至つては、奨励の最顕著なるものであると」いう。
 永井荷風はこの二点を『大塩平八郎』の主眼であるとなし、後者について特にこう指摘する。*1

而して此の返忠をなしたる東組同心平山助次郎なるもの、事変の翌年自殺せることを記するに当り、著者は「人間らしく自殺を遂げた」となせり。「人間らしく」の一語以て著者が意の在るところを推知すべし。

堺事件
 『大塩平八郎』の後に短時日で書かれた。バイアスのかかった史料一本のみを用い、その史料に忠実に小説にまとめたものらしい。明治元年(正確には慶応四年)、堺でフランス水兵を殺傷した責任を取り、土佐藩士二十人が切腹することになる。ところが、十一人終わったところでフランス側が中止を求め、残る九人は助命の上流罪にされる。
 『大塩平八郎』とともに大逆事件との関連が指摘されるようだが、鷗外の立場は二様に解せられていて、互いに相容れない。私にはどう解釈すべきか確信はない。まだまだ鷗外のことなど全く分かっていないのだ。この件に関して言えるのは『沈黙の塔』を読んだことがある、というくらいなものである。

生田川
 伝説に材を取った短い戯曲。短すぎて、本当にこれで望んだような効果が得られたのかどうか疑問ではある。

*1:月報より「隠居のこゞと」の孫引きである。