本の覚書

本と語学のはなし

日本語のレトリック/瀬戸賢一


 学生時代にはキケロの『カティリーナ弾劾』を授業で読んだりしたから、レトリックには関心がある。しかし、日本ではあまりこれを主題にした本を見ないので、しかも高校生くらいを対象にその重要性を説いているので、嬉しくなる。
 レトリックは決して疾しさを隠蔽するためのトリックではない。元来は弁論術から発した説得の術であり、それが小手先のテクニックに過ぎないのでない証拠には、デモステネスなんかは口に石を含むという極端な発声練習をしてまで、弁論の訓練を積んだのである。
 ここでは三十の基本的な修辞の技術が説明される。もちろんそれで全てではない。私が持っているギリシア語の文法書には簡単なレトリック辞典がついているけど、その最初の項にあるanacoluthon(破格)からして載っていない。対話にヴィヴィッドな感触を与えるためにプラトンもよく使っているが、哲学の内容が重要なわけだし、そもそも訳出不可能である場合が多いから、通常何もなかったように訳され、我々は気がつかないのだけど。それはよいとして、三十というのは確かに常識的に知っておくべき最低限の数だろうと思う。すべて日常会話の中で使っているテクニックの応用である。磨けば文章の中でも有効に用いることができる。


 技巧を否定する考えもあってよい。叙事詩はムーサイの女神たちに呼びかけることから始まる。「怒りを歌え、女神たちよ、ペーレウスの子アキレウスの」とは『イーリアス』の一行目だ。詩人が歌うのではない、女神が詩人を通して歌うのである。しかし、ホメロスの詩はギリシア文芸の劈頭を飾りつつ、いきなり比類もなく完成されていた。
 イエスは弟子たちの迫害を予告したとき、裁きの場では「何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」と助言している。だが彼らは日常イエスに従い、その巧みな言葉に学んでいた人たちだ。それだけの器でない者に霊が宿れば、『使徒行伝』なんかに出てくる異言を語る者にしかなれないのだ。
 テクニックは無意識にまで落とし込み、平明な言葉遣いを磨いていくのが(それも一種のテクニックには違いないが)、テクニックを否定する人の進む道だろうと思う。