本の覚書

本と語学のはなし

TIME April 23, 2018

Time Asia [US] April 23 2018 (単号)

Time Asia [US] April 23 2018 (単号)

 二か月以上遅れている。
 冬場の大雪があったり、職場で一人欠けたために休みが少なくなったり、アマゾン・プライムを利用して映画ばかり見たり(先月会員登録を更新しなかったが、今月また会員になった)、在宅でできるアルバイトをしたり(ほとんど稼げないのでやめた)、月刊のル・モンドを購読し始めたりして、なかなかタイムに集中できなかったのだが、やることを少し減らし(先日極限と書いたものからは少し増やしている)、優先するべきものを決め、ようやく復活の兆しが見え始めてきた。


 ネット中毒になるのは見る側の問題と言うだけではなくて、見せる側によって行動心理学を応用したマインド・コントロールが仕掛けられているせいでもある。
 その一例として。

Pinterest, one of the first Silicon Valley firms to hire behavioral psychologists to work alongside designers, plays on our psychology in a different way. Its interface, which features an endless scroll of pictures arranged in a staggered, jigsaw-like pattern, is human catnip. It ensures that users always see a partial image of what comes next, which tantalizes our curiosity and deprives us of any natural stopping point, while simultaneously offering an endless well of new content. (p.33)

 こういう技法は FacebookInstagramTwitterYouTube でも使われている。

“People joke all the time about trying to build a ‘diaper product,’” he says. “The idea is, ‘Make something so addictive, they don’t even want to get up to pee.” (p.34)

 トイレにも行きたくなくなるくらい、つまりおむつを必要とするほど中毒性のあるアプリの開発が目指されているとすれば、個人の節制だけで済む話ではない。

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ハイデルベルク信仰問答/吉田隆訳

ハイデルベルク信仰問答 (新教新書)

ハイデルベルク信仰問答 (新教新書)

 十六世紀、プファルツ選帝侯フリードリヒ三世のもとで作られたプロテスタントのカテキズム。カルヴァン派の傾向。改革長老主義教会で今もよく読まれているらしい。
 プロテスタントは私には厳しすぎると改めて思う。


 カトリック批判は随所に現れるが(それがプロテスタントである)、最もはっきり名指しして書かれているのが問80である。これは第二版で付加され、第三版でさらに幾つかの文言が足された(引用中、〔 〕内の言葉)。
 「主の晩餐と教皇のミサとの違いは何ですか」という問いに対する答え。

主の晩餐がわたしたちに証しすることは、
  イエス・キリスト御自身が
  ただ一度十字架上で成就してくださった
  その唯一の犠牲によって、
  わたしたちが自分のすべての罪の
  完全な赦しをいただいているということ。
  〔また、わたしたちが聖霊によって、
  キリストに接ぎ木されている、ということです。
  この方は、今そのまことの体と共に
  天の御父の右におられ、
  そこで礼拝されることを望んでおられます。〕
しかし、ミサが教えることは、
  今日も日ごとに司祭たちによって
  キリストが彼らのために献げられなければ、
  生きている者も死んだ者も
  キリストの苦難による罪の赦しをいただいていない、
  ということ。
  〔また、キリストはパンとブドウ酒の形のもとに
  肉体的に臨在されるので、
  そこにおいて礼拝されなければならない、
  ということです。〕
このようにミサは、根本的には、
  イエス・キリストの唯一の犠牲と苦難を否定しており、
  〔呪わるべき〕偶像礼拝に〔ほかなりません。〕

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沈黙命令【ギリシア語・ラテン語】

新約聖書 訳と註〈3〉パウロ書簡(その1)

新約聖書 訳と註〈3〉パウロ書簡(その1)

 コリントの人々への第一の手紙14章33b-34。

Ὡς ἐν πάσαις ταῖς ἐκκλησίαις τῶν ἁγίων αἱ γυναῖκες ἐν ταῖς ἐκκλησίαις σιγάτωσαν· οὐ γὰρ ἐπιτρέπεται αὐταῖς λαλεῖν, ἀλλ’ ὑποτασσέσθωσαν, καθὼς καὶ ὁ νόμος λέγει.

Sicut in omnibus ecclesiis sanctorum, mulieres in ecclesiis taceant, non enim permittitur eis loqui; sed subditae sint, sicut et lex dicit.

 邦訳は田川建三訳。

聖者たちのすべての教会でそうであるように。
女は教会では黙っているがよい。女には語ることは許されていない。女は従属しているべきなのだ。それはまた律法も言っていることである。


 マリアをほとんど神格化するキリスト教徒たちがいるように、パウロをほとんど神格化するキリスト教徒たちもいる。彼らはパウロの書簡に現代の価値観にそぐわない部分を見つけると、いろいろ理屈をつけてこれはパウロ以降の挿入であると主張するのが常である。
 引用したところもそのひとつ。岩波訳の翻訳者(青野太潮)もパウロ主義者であるから、後世挿入説が真実であると断言している。
 しかし、田川は言う。

この句を中心に33-34節(ないし33節後半-36節)は後世の挿入である、という説がある。基本的な理由は、聖なるパウロ様がここまで露骨に女性差別的な発言をしたんじゃ、現代キリスト教会にとって都合が悪いから削除してしまえ、ということだが、神学者たちはずるいから、そうとはっきり理由を言うことはしない。(p.365)

 根拠と言われるものを一つ一つ根拠にはならないと切り捨て、最後にまた念を押す。

要するに、最初に指摘したように、これらの学者たちは、聖パウロがこんなおぞましいことを言ったのでは困るから、そういう厄介なせりふは聖書から削除してしまえ、と主張しているのである。しかし、そういうことをやるのなら、はじめから昔の聖書なんぞやめてしまって、御自分たちに都合のよろしい現代版「聖書」を御自分たちの手でお書きになる方がましだろう。気に入ろうと気に入るまいと、パウロとはそういう人なのだ。多くの読者たちは、「女は黙っていろ」などとは、ずい分ひどいことを言うね、とあきれられるだろう。まったくね。しかしそれなら、このせりふはなかったことにしよう、などと誤魔化さずに、パウロというのは嫌な奴だ、と正直に認識なさればよろしい。それが事実なんだから。(pp.368-9)

 田川は殊更パウロを嫌っているようだが、そこまででなくとも、パウロをその神学的な高みにもかかわらず、大いに欠点のある一人の人間として捉える方がよほど面白いのではないかと思う。


 先ほど書いた日課の削減。
 現在考え得る限り極限まで削ってみたら、こうなった。タイム、ディプロ、リスニング、新約聖書フランシスコ会訳聖書、読書。

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