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本の覚書

本と語学のはなし

可憐な【フランス語】

Rouge Et Le Noir Stendhal (Folio (Gallimard))

Rouge Et Le Noir Stendhal (Folio (Gallimard))

赤と黒〈下〉 (岩波文庫 赤 526-4 9

赤と黒〈下〉 (岩波文庫 赤 526-4 9

 Mademoiselle de la Mole paru derièrre sa vitre ; il montra sa lettre à demi ; elle baissa la tête. Aussitôt Julien remonta chez lui en courant, et rencontra par hasard, dans le grand escalier, la belle Mathilde, qui saisit sa lettre avec une aisance parfaite et des yeux riants.
 Que de passion il y avait dans les yeux de cette pauvre madame de Rênal, se dit Julien, quand, même après six mois de relations intimes, elle osait recevoir une lettre de moi ! De sa vie, je crois, elle ne m’a regardé avec des yeux riants. (p.331-2)

 ラ・モール嬢が窓ガラスの後へ姿を見せた。彼は手紙をちょっと出して見せた。彼女はうなずいた。彼はすぐに自分の部屋へ駆け上がったが、大階段のところでばったり美しいマチルドに出会った。彼女は眼に笑をたたえて、全く平気な顔をして彼の手紙をつかんだ。
 (何と燃えつきそうな眼差しをしたことであろう、あの可憐なレナール夫人は)とジュリアンは思った。(もう打ちとけた仲になって半年も経ってからでさえ、いざおれの手紙を受取ろうというだんになると、眼に笑をたたえておれをみたりしたことなど、実際一度だってありはしない) (p.170)

 おまけのフランス語。
 ラ・モール嬢とマチルドは同一人物である。現在の恋の駆け引きの相手。レナール夫人はかつての不倫の相手。「可憐な」と訳されているのは pauvre という形容詞で、英語の poor に相当する。「打ちとけた仲」についてる形容詞の intimes は婉曲的に sexuelles を指しているだろう。
 女性の好みとしては旧時代に属する価値観であるのは確かだが、しかし、これは「可憐」と聞いて我々がイメージするようなものに対する保護者的な愛の物語ではない。Passion の物語である。

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ウルガタとルター【ヘブライ語/ギリシャ語/ラテン語/ドイツ語】

Biblia Sacra Vulgata

Biblia Sacra Vulgata

Die Bibel. Lutherbibel. Schwarze Standardausgabe 1984. Mit Apokryphen

Die Bibel. Lutherbibel. Schwarze Standardausgabe 1984. Mit Apokryphen

 とは言え、アウグスティヌスミヒャエル・エンデもやめてしまうかもしれない。
 そんな場合の最後の手段として、聖書の原典講読の際に、ラテン語訳とドイツ語訳を参照するのはどうだろう。『告白』と『モモ』を読みながら、しばらく同時にウルガタ訳とルター訳(何度も改訂を経た現代語訳である)も試してみることにした。

旧約聖書

Biblia Hebraica Stuttgartensia

Biblia Hebraica Stuttgartensia

 創世記16章6節の後半。日本語は新共同訳。

וַתְּעַנֶּהָ שָֹרַי וַתִּבְרַח מִפָּנֶיהָ

adfligente igitur eam Sarai fugam iniit

Als nun Sarai demütigen wollte, floh sie von ihr.

サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。

 ラテン語は Sarai が不変化なので分かりにくいかもしれないが、奪格の構文。主文は fugam iniit で、主語は奪格構文の中で目的語であった彼女、すなわちサライの女奴隷ハガイである。
 ドイツ語がわざわざ wollte という助動詞を補っているのは、護教的な意図からであろうか。サライはハガルを虐待しようと意志した、あるいは虐待しようとするところであったということであって、実際にはそうするまでには至らなかった、という風に読める。英語の would は、(しばしば非難すべき)過去の習慣を表すことがあるが、ドイツ語にそのような用法はないようだし、そもそも原文が過去の習慣などを指示してはいない。
 欧米の聖書翻訳に間違いはないなどと考えるのは、大きな間違いである。しばしばそれは確信犯的な誤訳であるだけに、厄介である。


 それにしても、聖書ヘブライ語の入力は面倒くさい。

新約聖書

Novum Testamentum Graece: Nestle Aland 28th Revised Ed. of the Greek New Testament, Standard Edition

Novum Testamentum Graece: Nestle Aland 28th Revised Ed. of the Greek New Testament, Standard Edition

 ちょっと前に読んだところであるが、一コリント9章23節。日本語は新共同訳。

πάντα δὲ ποιῶ διὰ τὸ εὐαγγέλιον, ἵνα συγκοινωνὸς αὐτοῦ γένωμαι.

omnia autem facio propter evangelium
ut particeps eius efficar

Alles aber tue ich um Evangeliums willen, um an ihm teilzuhaben.

福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

 ここで問題となるのはシュンコイノーノス、すなわち「共同者」をどう訳すかということであるが、ラテン語は直訳。ドイツ語は「参与する」という動詞に訳す。どのみち曖昧ではあるけど、新共同訳になると、疑いようもなく、皆と一緒に福音の分け前にあずかるという意味になる。
 だが、と田川建三は言う。

この「共に」という接頭語 (syn) はここではそういう意味ではなく、私が福音と共になる、ないし福音の側の存在となる、という意味である。(中略)この語 (koinōnos) は、自分もそちら側(福音の側)の仲間になる、という意味。この語に「あずかる者」「享受する者」といった意味はない。(訳と註 p.320)

 つまり、新共同訳をはじめとする多くの日本語訳は、まるで原文と反対のことを言っているというのである。田川がパウロ嫌いであるのは確かだが、ここでは田川の言う通り、パウロが福音のパートナーになろうとしていると読む方がよさそうに思われる。


 ギリシャ語の入力は楽しい。
 ラテン語訳やドイツ語訳を一緒に読むのは、いずれ飽きそう。

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Confessiones を再開してみる【ラテン語】

Confessions, Volume I: Books 1-8 (Loeb Classical Library)

Confessions, Volume I: Books 1-8 (Loeb Classical Library)

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

 聖書を職場で読むことにした。タイムは休日を利用して、家で一気に読むことにした。
 それで普段の日は、聖書とタイムの負担が減った分、和書の併読を一冊増やし、ラテン語の原典講読を再開してみることにした。
 結局いつもの通り、やることが多すぎて停滞することになりそうな気もするし、タイムの一気読みにはまだ修行が足りていないかもしれない。失敗しそうな予感は大いにあるのだけど、昔なんの気なしに希望した洗礼名がアウグスティヌスであることだし、ちょっと踏ん張ってみなくてはならない。

cum vero aliquid tu repente inusitatum et inprovisum imperas, etiamsi hoc aliquando vetuisti, quamvis causam imperii tui pro tempore occultes, et quamvis contra pactum sit aliquorum hominum societatis, quis dubitet esse faciendum, quando ea iusta est societas hominum, quae servit tibi ? sed beati qui te imperasse sciunt. fiunt enim omnia a servientibus tibi, vel ad exhibendum, quod ad praesens opus est, vel ad futura praenuntianda. (3.9)

しかしあなたが突然何か異様な思いがけないことを命ぜられるとき、たとえあなたがかつてこのことを禁じられたとしても、またあなたの命令の理由がしばらく分明でなくても、さらにそのことが社会のある人々の約束に反していても、だれがそれにしたがわねばならぬことを疑うだろうか。あなたに奉仕する人間社会のみが正しいからである。しかしあなたがそれを命ぜられたということを知っている人は幸いである。あなたに仕える人たちのなすすべてのことはみな、現在にとって必要なことを示すものか、あるいは未来のことを予言するものであるからである。(p.85)

 宗教とはそういうものかもしれないが、時に不穏な言説を表明するものである。

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