本の覚書

本と語学のはなし

【モンテーニュ】誕生と暇な時間と修行に人生のあれほどの部分をさくべきではない【エセー1.57】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第57章「年齢について」を読了する。これで第1巻を終了する。

Il me semble que, considerant la foiblesse de nostre vie, et à combien d'escueils ordinaires et naturels elle est exposée, on n'en devroit pas faire si grande part à la naissance, à l'oisiveté, et à l'apprentissage. (p.328)

われわれの生命がはかないものであって、日常的に、ごく自然に、多くの危険にさらされていることを考えると、誕生と、暇な時間と、修行に、人生のあれほどの部分をさくべきではないようにも思われるのだが。(p.351)

 第1巻最後の文。
 「誕生」とは何だろう。子作りのことだろうか。「暇な時間」は無為のこととも考えられるが、ラテン語のotiumのごとく、「勉学」のニュアンスが含まれるのではないかと、宮下は考える。
 すると、ネサンス、オワジヴテ、アプレンティサジュというのは、誕生から、勉強、見習いへと、一人前になるまでの時間の経過を表しているのかもしれない。
 われわれはもっと早く社会的に認められてよいというのが、この章の主張の一つであった。


 パソコンが満足に動いてくれないので、仕事のある日は開かなくなった。
 今後、このブログを更新していくかどうか、わからない。

【モンテーニュ】最近のあの企てに伴って危険や困難を引き受けよう【エセー1.56】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第56章「祈りについて」を読了する。

Ils m'en peuvent croire. Si rien eust deu tenter ma jeunesse, l'ambition du hazard et difficulté qui suivoient cette recente entreprinse y eust eu bonne part. (p.320)

わたしのいうことを信じてくれないだろうか。もしも、わが青春をそそのかすものがなにかあったとしたら、それは、最近のあの企て〔宗教改革のこと〕に伴って、危険や困難を引き受けようという気持ちが、大きな役割をはたしていたかもしれなかったのだ。(p.333)

 イタリア旅行の際に、カトリック教会から『エセー』を検閲され、訂正の指示を受けた。そうしたことも、この章への後の書き込みは反映しているようである。
 引用した部分は、若かりし頃、モンテーニュプロテスタント側に心が揺れていたことを語ったものだろうか。

【モンテーニュ】あの青春の日々の濃厚なキスも【エセー1.55】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第55章「匂いについて」を読了する。

Mais à moy particulierement, les moustaches, que j'ay pleines, m'en servent. Si j'en approche mes gans ou mon mouchoir, l'odeur y tiendra tout un jour. Elles accusent le lieu d'où je viens. Les estroits baisers de la jeunesse, savoureux, gloutons et gluants s'y colloyent autresfois, et s'y tenoient plusieurs heures apres. (p.315)

もっともわたしの場合は特に、このたっぷりと生えた口ひげが、その役割を果たしてくれる。手袋やハンカチを口ひげに近づけたりすると、その匂いが一日中とれない。どこに行っていたのかも、ひげのせいでわかってしまう。あの青春の日々の濃厚なキスも、おいしくて飽くことをしらぬ、ねっとりした感触が、あのころは、何時間たってもそこに残っていたものだ。(p.325)

 モンテーニュは聖人君子というわけではない。センシュアルな面も多分に持ち合わせているし、それを隠そうとするでもない。ときどきそうした情熱がほとばしるような文章に出会うことがある。


 第1巻は残り2章である。読み始めた頃は、ここまで来ることができると信じていたわけではない。大概の私の企てのごとく、中途で投げ出す可能性の方が高いと考えていたはずである。
 今のペースで続けるならば、時間はかかるにしても、最後まで読み通せるだろう。