本の覚書

本と語学のはなし

【モンテーニュ】わたしを馬もろとも空中に放り出した【エセー2.6】

 モンテーニュ『エセー』第2巻第6章「実地に学ぶことについて」を読了する。
 モンテーニュの主要なテーマの一つは「死」であった。だが、死については信仰や形而上学的な要請が何かを語ることはあっても、実際の経験が報告されることはない。篤信家でもなく空想的理論の信奉者でもないモンテーニュには、それに飽き足らないのである。
 ある日、死を実地に学ぶ機会を得た。死んだわけではない。半ば生き、半ば死んだ、臨死のごとき体験をしただけである。しかし、「この記憶は、死の顔と姿イデーとを、ほぼ等身大で見せてくれて、わたしを、いくぶんか死と和解させてくれた」(p.93)のであった。


un de mes gens, grand et fort, monté sur un puissant roussin qui avoit une bouche desesperée, frais au demeurant et vigoureux, pour faire le hardy et devancer ses compaignons vint à le pousser à toute bride droict dans ma route, et fondre comme un colosse sur le petit homme et petit cheval, et le foudroier de sa roideur et de sa pesanteur, nous envoyant l'un et l'autre les pieds contremont: (p.373)

部下のひとりに、大きくてがっちりした男がいて、はみ受けも悪く、若くて癇性で、ばか力のある荷役用の馬に乗っていたのだけれど、この男が、仲間を追い越して勇敢なところを見せてやろうとして、全速力で馬を走らせて、わたしの前に突進してきた挙げ句に、この小男〔モンテーニュ〕と小さな馬に、まるで巨像のようにのしかかってきたかと思うと、がしーんとぶちかまし、わたしを馬もろとも空中に放り出したのだ。(p.92)

 皆が死んだかと思った。だが、血の塊を大量に吐き、やがて意識を取り戻し、なにやら差配のごときことも行った。だが、モンテーニュ自身にとっては、生きているというよりは死んでいるに近い感覚であった。眠りに落ちていくときのような心地よさを感じながら。


 宮下志朗の訳は、それ以前の人たちのものより間違いが少ないだろうとは思うが、愛読したいという気持ちにはさせられることがない。
 ひらがな、読点、伸ばし棒(長音記号)を使った擬音語・擬態語がやたらに多く、特定のお気に入りの言葉や表現が頻出し、話が移り変わるときには「そういえば」が挿入されがちである。時折話し言葉に転じることもあるが、同時期に訳していた『パンタグリュエル』の世界が混入してきたかのような文体である。
 上に引用したところでは、「がしーんとぶちかまし」が気になって仕方ない。一体「le foudroier de sa roideur et de sa pesanteur」を、どうしてこんなに幼稚に訳さなくてはいけないのだろうか。原二郎は「電撃のような激しさと重みでぶつかって」としているし、関根秀雄は「あっという間にその力と重みでわたしをおしつぶしてしまった」としているのである。


 話は変わる。契約社員の話は断った。組織に所属し束縛されることは、極力避けなければいけない。