本の覚書

本と語学のはなし

神を愛する者は神に知られている【ギリシャ語】

 時間があるので、ギリシャ文字も久しぶりに入力してみたい。ヘブライ語もそうだが、上や下にくっついてる記号を入れるのが面倒くさい。


 コリントの信徒への手紙一8章1節から3節の原文と田川建三訳。

Περὶ δὲ τῶν εἰδωλοθύτων, οἴδαμεν ὅτι πάντες γνῶσιν ἔχομεν. ἡ γνῶσις φυσιοῖ, ἡ δὲ ἀγάπη οἰκοδομεῖ· εἴ τις δοκεῖ ἐγνωκέναι τι, οὔπω ἔγνω καθὼς δεῖ γνῶναι· εἰ δέ τις ἀγαπᾷ τὸν θεόν, οὗτος ἔγνωσται ὑπ’ αὐτοῦ.

偶像に供えられた肉については、我々誰もが知識を持っていると思う。だが知識はふくれ上がらせる。愛が建てるのである。もしも誰かが何かを知っていると思っているなら、その人はまだ知るべき仕方で知ってはいない、ということだ。もしも誰かが神を愛するなら、その者は神によって知られているのである。


 新共同訳ではこうなっている。

偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。

 「我々は皆、知識を持っている」というところ、鍵括弧がついてる。岩波訳やフランシスコ会訳でも同様だが、これはコリントの人たちの主張であって、パウロの意見ではないという解釈である。
 しかし、田川ははっきりとした引用の形跡も証拠もない以上、そのような解釈を訳文に持ち込むべきではないと考える。むしろ、4節に明瞭にパウロの考えが書かれているではないかと(岩波訳とフランシスコ会訳はそれもコリントの人たちの主張とする)。


 「知らねばならぬことをまだ知らないのです」は素人が見ても誤訳のように思われるのだが(文語訳、口語訳、新改訳もほぼ同様)、果たして田川も誤訳と切り捨てている。
 量の問題ではなく、その知識がしかるべき仕方で認識されていないことを、ここでは言っているのである。おそらくそれは愛なのだろうか。


 ところで、偶像に供えられた肉とはどういうことかというと、様々な宗教の神殿で犠牲に供えられた牛や羊の肉が、下請け業者に卸され、一般に流通していたのである。だから、市場で肉を買っても、それは偶像崇拝を禁じる一神教徒には不浄の肉である可能性があった。
 これをどうしたらいいのかということは、当時はまだ悩ましい問題であったようなのだ。