本の覚書

本と語学のはなし

イエスという男/田川建三

イエスという男 第二版 増補改訂

イエスという男 第二版 増補改訂

 正統派のキリスト教徒にとって、イエスとは先ず何より十字架上の死であり、それによる人類の罪の償いであり、死からの復活であり、すなわちキリストである。イエスが生きたのはもっぱらその神学的な死を死ぬためであり、受難物語以前のイエスの生などはほとんどキリスト教徒の眼中にない。

そうではない。イエスのような生と活動の結末として、あのような死があった、ということだ。あのようにすさまじく生きたから、あのようにすさまじい死にいたり着いた。いやむしろ、あのようなすさまじい死が予期されているにもかかわらず、敢えてそれを回避せずに行きぬいた、ということか。イエスの死に希望があるとしたら、死そのものの中にではなく、その死にいたるまで生きかつ活動し続けた姿の中にある。(p.408)

 田川建三にとって、イエスキリスト教の先駆者などではなく、歴史の先駆者であり、先ず何よりも神学的解釈に解消あるは抹殺されえない、生きた活動である。
 彼が描くイエスは、逆説的反抗者――真理をもたらすのではなく、現状を支配する「真理」を拒否し、自覚的に切り結ぼうとする逆説的反抗者――として、ローマ植民地支配に対して、ユダヤ教支配体制に対して、社会経済的構造に対して、十字架上の死にいたるまでの批判――決して暴動を首謀するというやり方ではなく――を投げかけた、すさまじい、それでいてどこか鷹揚な男である。

神の国

 神の国について、メモしておく。
 マタイとルカはイエスの不思議な言葉を伝えている。田川の訳でマタイ11章12節を引用してみる。

洗礼者ヨハネの時より今にいたるまで、天国*1には暴力が加えられている。そして暴力を加える者たちが天国を簒奪しようとしている。

 これにはいろいろ解釈があるようだけど、田川はあくまで書いてある通りに読めと言う。洗礼者ヨハネと書いてある以上、これは洗礼者ヨハネおよびその弟子たちに対する批判なのだ。特にヨハネの弟子たちが、自分たちの洗礼活動によらなければ神の国には入れないなどと主張したのだとすれば(定かではないが)、それは神の国を簒奪する行為である。
 いや、神の国なんてそんなにがつがつして求めるものではない。

神の国などということが言えるとすれば、そこは、取税人や売春婦や貧しい者が今や収奪されることから解放されて安心していられる場所のはずだ。そこにはいるのに資格などいらない。町の通りに出ていくがいい。誰でも彼でもそこで出会う人は、みんな神の国にはいる(マタイ22.9=ルカ14.21、多分Q資料)。そのようにして誰でも彼でもがにこにことしていられる神の国において、そういう人たちと比べて、洗礼者ヨハネは最も小さい。(p.345-346)

 イエスは言った。「神の国はあなた達の中にある」(ルカ17.21)。この場合の「中」という前置詞は、あなた達の間にあるイエスのことだとか、あなた達の内側の精神生活のことではなく、手の届く範囲というほどの意味であろうと言う(文献的にも類例は多く見つかる)。あなた達の当たり前の可能性として、神の国はある。種をまき、あとは寝たり起きたり、食ったり飲んだりしている間に、収穫の時は来る。それが神の国というものではないか。

悪賢い執事

 一番面白かったのは、経済に関する指摘である。
 イエスはお金のたとえ話をよくするが、必ずしも分かりやすいとは言えない。それは、おそらくそこに宗教的な意味や教訓を読み込もうとするからで、そういう色眼鏡を外せばもっとラディカルなイエスの精神が見えてくるのかもしれない。
 たとえば、最も難解であろう悪賢い執事の話がある。主人の財産を浪費した執事がいた。この浪費という言葉の原語は「ばらまく」という意味であり、そう訳した方がいいのかもしれぬ。ともかく、執事は主人からそのことを問い詰められた。窮地に陥った執事は、主人に債務のある者を呼び出し、証書を書き換えさせて、油百バトの借りを五十バトに、小麦百コルの借りを八十コルにしてやった。そうすれば執事の職を追われても、彼らの間で生きて行けるだろうと思ったのである。そして、驚くべきことに、主人は執事の悪賢いやり方を褒めたのである。

大地主の財産など、所詮は不正なマモン(富)なのだ。それを「ばらまいて」しまって何故悪いか。ここには、当時の社会経済秩序に対する根本的な疑念が頭をもたげている。それは直観的な疑念にすぎないが、底をえぐっている。(p.275)

 つまり、執事を訊問する主人は大地主であり、その悪知恵を褒める最後の主人は神である。

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*1:天国というのは神の国のマタイ的な言い換えであり、雲の上にそのような王国があるということではない。