本の覚書

本と語学のはなし

イエス/R. ブルトマン

イエス

イエス

 イエスの伝記のようなものは一切なくて、そもそもそういうものの不可能性から出発している本である。
 ブルトマンはマールブルクハイデガーの同僚であった人で、共同の演習をしたこともあるそうで、なんだか実存哲学的な、今、ここでの決断を迫るような、イエスとの対話を目指すような、そんな本で、ちょっと分かりにくく、今私が求めている内容ではなかった。

こうしてブルトマンは、様式史の方法によってキリスト教の歴史の最古の史実を求めていくわけであるが、その結果最古の史実として見いだされたものは、教団によって救い主として信じられたキリストであって、決して史実としてのイエスの客観的な姿ではなかった。福音書は歴史書というよりは、信仰告白の書であって、その最古の層はたしかに史的イエスの言葉を伝えてはいるが、福音書の関心はそこにはなく、むしろこのイエスを救い主と信じる教団の信仰の告白にあった。「告知されるキリストは、もはや史的イエスではなく、信仰と祭儀のキリストである」(共観伝承史、396頁)。福音書記者が読者に対して求めているのは、客観的事実としてのイエスの生涯を確認することではなく、イエスを救い主と信じる教団の信仰に同意することである。読者はこれに同意するか否か、応答をせまられている。このような書物に対して客観的な態度のみをとることは、その本質を見あやまることになる。求められているのは対話であり、主体的な出会いである。様式史は、もともと客観的に確定できる最古の史実を求めて出発したのであるが、批判に批判をかさねて、最後にキリスト教信仰の究極の、これ以上さかのぼり得ない史実として示されたものは、実は客観的なイエス像ではなくて、上述のような歴史家自身を対話にまきこみ、その応答を要求する信仰のキリストであった。ブルトマンの用語を使えば、それはヒストリーではなく、ゲシヒテであった。こうして客観的観察の徹底として生まれた様式史は、その結果かえってその母胎である客観的歴史観察の前提となっていた歴史観を打ち破って、歴史に対する新しい態度を要求することになる。(あとがき p.234-235)


 ともかくこれで田川建三の『イエスという男』を読む準備ができた。前半でブルトマンの『イエス』、八木誠一の『イエス』、土井正興の『イエス・キリスト』と対話をしているのだと言うが、ようやくその対話相手をみんな読み終えたのである。
 ただし、後半ではしばしばイェレミアスに言及しているというけど、それは未読である。超有名どころではあるし、いずれ読むことにはなるのだろうけど、なにせ古い本であるし(ブルトマンも古いのではあるが)、後回しでよいかなと。