本の覚書

本と語学のはなし

よくわかるキリスト教の礼拝/小栗献

 プロテスタントの礼拝には統一的な進行というものがないようで、この本でも4つの例が併記されている。しかし、あくまで例である。ネットで実際の礼拝を聞いてみると、大筋ではこれらと同じであっても、それぞれの教会が独自のプログラムを持っているのが分かる。カトリックのミサののようにどこに行っても基本的に同じ式次第で、読み上げる聖書の箇所まで決められているのとは違うのだ。

 カトリックの司祭はあまり自分の言葉を話さない。ミサにおいて重要なのは聖体拝領である。ウェハースのようなパン(ホスチアと呼ばれる)がミサにおいてキリストの体に変容する。プロテスタントでは否定されるところの、いわゆる実体変化だ。「キリストのからだ」と言って司祭はそのホスチアを信徒に渡す。信徒はキリストの体を食するのである。敬虔な人は手に受けるのでは失礼だとか、もったいないとか思うのだろう、司祭から直接舌の上に置いてもらうこともある。
 プロテスタントの礼拝で圧倒的な比重を占めるのは、牧師の説教であるらしい。実際の礼拝の様子を聞くと(ネットでしか聞いたことはないが)、牧師の個性によって様々なスタイルはあるものの、総じて結構レベルの高い話をしている。つい最近聞いたものなんかは、ちょっとした入門書の原稿を読み上げているのかと思ったくらいだ。あまり必要もなさそうなところではあったけど、ギリシャ語の原語なんかも飛び出したりして。あれでみんな退屈せずに聞けるのだとしたら(私はほとんど集中できなかった)、プロテスタントの人たちは学者的な気質の人たちばかりなのかもしれない。

 第2バチカン公会議まで、カトリックのミサはラテン語で立てられ、司祭は祭壇に向かっていたため会衆には背を向けており、歌を歌うのは専ら聖歌隊であって、会衆はほとんど何もすることはなかった。今では、歌も歌うし、司祭の言葉に応答もするし(定型ではあるが)、聖書の朗読は信徒の代表者が行っている。私も夕方のミサで一度だけ聖書を読み上げたことがある。
 プロテスタントの礼拝でも、「牧師は個人的な趣味で聖書を選んで説教し、独り言のような長々とした祈りがなされ、いつも同じような、しかも個人的・内面的な内容の讃美歌ばかりが歌われ、会衆は何もせずにそこに座っているだけ」(p.145)というようなことがあったらしい。それがどう改革されつつあるのかはよく知らないが、カトリックと比較して大きく違うと感じるのは、信徒の代表が司式者になるということだ。これを任される人は大変だろう。自分の言葉で語らなくてはならない場面も出てくるわけだが、偽善的な作文に良心の呵責を何ほどか感じずには済まされないはずだ。私ならば絶対に引き受けたくない役割である。

 結局礼拝に行くのかといえば、まず行かない。仕事の都合で出られる日は限られるし、可能ではあっても出るのに相当の努力を要する。私の家族は宗教といえば等し並みにカルトであると思っている(その割にろくでもない迷信の虜であることもあるが)。
 しかし、そうした事情とは関係なく、今は内発的な要求をほとんど感じない。カトリックらしい信仰は持っていないし、むしろ余計なもので膨らみすぎているとはっきり感じているにもかかわらず、行くならカトリックのミサでいいやと思っている。転籍してまで礼拝に行くのは面倒くさい。
 いや、カトリックのミサだって、まず行かない。私の籍はたぶん受洗した東京の教会にあるはずなのだが、転居の手続きをするのが面倒くさい(籍のある教会に転出証明書を発行してもらい、これから通う教会に提出しなくてはならないようだ)。
 でも、一番面倒くさいのはやはり人間関係だ。聖書的にもカテキズム的にも、私は教会で最も小さな者であらざるを得ない。しかも大いなる人たちを模範として成長して行こうなどという、しおらしいところは全くない。私は私のやり方で信仰に躓いていたいのだろう。
 誰がミサに与ろうと無関心でいてくれる都会の大きな教会ならば、もう一度行ってみたい気はする。