本の覚書

本と語学のはなし

永平広録第五

【読】363 育父源亜相(げんあしょう)のための上堂。永平の拄杖、一枝の梅。天暦年中、種を殖え来れり。五葉、芳を聯(つら)ね、今に未だに旧(ふ)りず。根・茎・果実、誠に悠なるかな。


【訳】363 育父源亜相のための上堂。永平(わたし)の拄杖はただ一枝の梅である。その由来は、天暦年間(949-957)に種子を殖えたものであって、五葉の梅は花に花を連ねて、いまにいたっても古びず新たである。思えば、その根、茎、果実、まことに悠久である。(全集11, p.79)


 源亜相は久我通具のこと。腹違いの兄で育ての親と言われることもあるが、今では実の父親であると考えるのが主流のようだ。ここで血筋と同様大事な問題は、近親のために特別に上堂を行うことが、道元の思想の転換を示すものかどうか、仮に転換があったとしたら、以前の道元と比べてどう評価するべきか、ということである。
 たとえば、この全集で『永平広録』の訳注を担当している鏡島元隆は、久我通具を道元の実の父とし、思想の転換はなかったものと考える。*1


 気になっていた学習塾に、ホームページ上のフォームから非常勤講師の申し込みをしてみたが、既に募集枠は埋まっているとの返事だった。新学期はもう目前なのだから、当たり前かもしれない。
 家庭教師の登録をするか。常に人員募集をしているであろう、多分あまり評判は良くないであろう、時給の安い塾に応募するか。翻訳会社のトライアルを受けながら、気になっていた塾が夏期講習用に講師募集をするタイミングを待つか(採用される保証はないけど)。まったく別の職種を考えるか。
 このまま気力を失ってホームレスになるのではないかという気もしてきた。あるいは仕方なく出家するか。