本の覚書

本と語学のはなし

Die Verwandlung


 今日はドイツ語を再開する。
 これで最近復活させたのが、道元、聖書、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語ということになる。道元と聖書は午前中の隙間時間に読む。外国語の原典講読は、英仏とは別にもう一つ独希羅のローテーションを作る。ただし後者に時間はかけない。自己満足の趣味程度で済ませておく。ブログ以外にものを書こうとしなければ、ぎりぎり許容範囲内というところだろう。


 カフカ『変身』の本文と池内紀訳を書き抜いておく。虫になったグレーゴルは、来年妹を音楽学校に入れてやるつもりだった。

 Öfters während der kurzen Aufenthalte Gregors in der Stadt wurde in den Gesprächen mit der Schwester das Konservatorium erwähnt, aber immer nur als schöner Traum, an dessen Verwirklichung nicht zu denken war, und die Eltern hörten nicht einmal diese unschuldigen Erwähnungen gern; aber Gregor dachte sehr bestimmt daran und beabsichtigte, es am Weihnachtsabend feierlich zu erklären.

 わが家にもどってきて、しばらく滞在するあいだ、妹と話すたびに音楽学校のことが話題になった。とても実現しっこない美しい夢としてであって、罪のない話だけにしても両親は聞くのが辛そうだった。しかし、グレーゴルはかたく心を決めていた。クリスマスの日に晴れやかに披露するつもりでいたのである。


 ここで注目すべき第一の点は、「diese unschuldigen Erwähnungen」が単に「この罪のない話を」とはならずに、付加語として使われている形容詞をいったん名詞から切り離して叙述の形容詞に見立てるという思考を経たのち、再び統合して「罪のない話だけに」と訳出されていること。何気ない付加語にこういうニュアンスを読み取るか否かで、翻訳はがらりと変わる。もちろんそういう読みを強調することが常に訳文を彫琢することになるとは限らないが。
 第二の点は、オリジナルではごく普通の客観的な、あるいは中立的な文章でも、日本語にする場合には小説の視点によって色をつけ得るということ。「辛そうだった」というと推量が働いている感じになる。この小説のカメラはグレーゴルの頭の上に取り付けられているから、そうした方が日本語らしくなるということである。これも訳者によって好みがあるだろうけど。
 全体的に池内は、隙のない訳文を作ろうというよりも、作者が日本語で書くとしたらこうするだろうと想像しながら翻訳しているようである。