本の覚書

本と語学のはなし

「うたかたの記」

 鴎外「うたかたの記」を読む。
 「うたかた」と言って誰もが思い出すのは、『方丈記』の冒頭であろう。

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世中(よのなか)にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。

 最近、島本理生の「シルエット」を読んでいたら、「うたかた」を用いた比喩表現が見つかった。

 わたしは言葉を失ったまま、つないだせっちゃんの手を強く握った。意識がすっぽりと頭の中から抜け落ちてどこかへ遠ざかるのを感じた。混乱する頭の片隅で、母親だけが唯一の自分の家族だといった冠くんの横顔がうたかたのように浮かんでは消えた。

 「うたかた」に至るまでの文章も感心はしないが、「うたかたのように浮かんでは消えた」なんてことを赤面もせずに書けるのはどうしたことだろう。どうしたってこの比喩は長明の文章を指し示さずにはおかないが、そこに見られた無常観などはすっぽり抜け落ちて、単に明滅するその形式が踏襲されるのみで、喚起されたイメージは空回りする。読んでいる方が恥ずかしくなってしまう。


 鴎外はどう書いているのか。引用してみよう。

 入りて見れば、半ば板敷にしたるひと間のみ。今火を点(とも)したりと見ゆる小「ランプ」竈の上に微(かすか)なり。四方(よも)の壁にゑがきたる粗末なる耶蘇一代記の彩色画は、煤に包まれておぼろげなり。藁火焚きなどして介抱しぬれど、少女蘇らず。巨勢は老女と屍(かばね)の傍に夜をとほして、消えて迹(あと)なきうたかたのうたてき世を喞(かこ)ちあかしつ。

 「うたかた」は消えるものなのである。消えては浮かぶとしても、消えたそれは浮かぶそれとは違うのだ。長明も「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」といっているではないか。
 島本のように、同じものの明滅を喩えるには、「うたかた」に染み付いたイメージはふさわしくない。「うたかた」なんかに頼らずに、別の言葉を見つけるべきだった。どうしても「うたかた」を使うというなら、鴎外くらいの芸当は必要である。


 本当は吉本ばななについても調べてみるべきなのだろう。ひょっとしたら、彼女が現代におけるスタンダードな用法を作り出しているのかもしれない。まあ、仮にそうだったとしても、というより、そうだったとしたら尚更のこと、作家たるもの安易にそれに乗っかってはいけない。