本の覚書

本と語学のはなし

毎日の読書(「教会の祈り」読書 第二朗読) 第1巻 待降節・降誕節/日本カトリック典礼委員会編集

毎日の読書「教会の祈り」読書第2朗読―待降節・降誕節

毎日の読書「教会の祈り」読書第2朗読―待降節・降誕節

 『教会の祈り』という聖務日課の本があって、熱心な人はそれを用いて朝昼晩に祈り、読書をするらしい。その読書の際に第二朗読として用いる文章を集めたのが、『毎日の読書』シリーズである。
 短い抜粋ながら、古代や中世の人々が書いたり説教したりしたものに触れることが出来る。他ではなかなか読むことが出来ないものばかりだから、貴重な原典集成でもあるかもしれない。

転職活動のこと

 先月末にカトリックの施設の求人のことを書いた。
 給料は多いとは言えないが、年収を計算すると現在とほぼ変わらないようだ。車を持つのは厳しいが、持てなくはない。どのみち、いずれ車は必要になるのだ。
 躊躇する理由はいくつかある。
 教会に積極的に関わる心の準備は、私には出来ていない。しかし、カトリックであることを隠して就職するのでない限り、自然と求められることであろう。
 その求人が想定しているのは、私のような人間ではない。殊にカトリックをめぐるスキャンダルが発覚した現在、ある種の疑念のまなざしを向けられるかもしれない。
 そんな折、父が入院したので、転職活動は一度休止することにした。倒れたわけではない。たまたま別件で CT を撮ったら、動脈瘤が大きくなっているのが見つかったので、今後手術なりカテなりしなくてはならないということになったのだ。
 求人が出てから二週間。今のところ決まってはいないようだ。給料のせいなのか、カトリックであるせいなのか(もちろん信仰は条件として記載されてはいないが)。いつまでも決まらないようなら、再び考えてみるかもしれない。

2018年8月【振り返り】

▼10年振りにパソコンを買い換える。
▼動きは速くなったが、それ以外の点に関して、私の使用レベルでは便利になったのか不便になったのか、どちらとも言えない。


▼タイムの定期購読を更新する。2020年7月20号まで送られてくることが確定した。
CNN ENGLISH EXPRESS の定期購読を中途で解約する。2018年11月号までである。人それぞれにやり方はあるだろうが、私はゆっくりじっくり繰り返し派。


カトリック系の施設の求人を見つけた。応募するべきか否か悩んでいる。
▼恐らく年収は現在とほとんど変わらない。しかし、マイカーが必要であるようなので、購入と維持の費用を考えると、かなり厳しい。
▼教会においても何らかの役割を求められるとしたら、辛いかもしれない。私は決して模範的なカトリックではない。それに、私が受洗していることを家族は知らない。
▼それでもこの求人に惹かれるのは、一つには現在の仕事に嫌気がさしてきたから。単純すぎて頭が呆けてきたし、夜勤が体にこたえるようになってきたし、ほぼ全ての同僚が苦手である。
▼一つには、最後の仕事となるであろうことは、単に給料を貰うためにするのではなく、私の関心にとって意味のあることをしたい。
▼この週末にもう一度よく考える。


フランシスコ会訳で創世記を終える。
出エジプト記フランシスコ会訳で始め、少しだけバルバロ訳に寄り道した後フランシスコ会訳に戻り、最後は新共同訳。
▼マタイによる福音書は新共同訳で始め、フランシスコ会訳、バルバロ訳で少しずつ読んだ後、最後はフランシスコ会訳。
▼現在はフランシスコ会訳でヨブ記


雑誌


映画・ドラマ

チャーリーズ・エンジェル(字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
フレンズ<ファースト・シーズン>(字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video

編集史とは何か 聖書学の基礎知識/ノーマン・ペリン

 様式史はそれぞれの生活の座において発展し、変更を加えられ、あるいは新たに作られた伝承に着目するものであるが、編集史はそれらの伝承を素材としながら福音書という文学類型に編み上げていった福音書記者たちの、その編集手腕に潜む神学を明らかにしようとするものである。
 福音書記者は歴史家ではない。神学者なのである。


 しかし、伝承の背後に信仰があり、福音書文学の背後に信仰があるとしても、歴史上のイエスに迫ることはまったく不可能であり、歴史上のイエスなど無意味であると言ってよいだろうか。
 訳者の松永希久夫はあとがきで書いている。

エスの場合、確かに復活という出来事(啓示の光)がなければ再解釈(信仰)は起らなかった。しかし、同時に復活の光に照らし出された新しいイエス像がナザレ人イエスの至当なる理解であると判断させた彼の生きざま死にざま(歴史的存在)が先行していて初めて、啓示は内実を伴うのである。(p.195)

 ノーマン・ペリンはまだ編集史という方法論が出来たばかりの頃の人であり、ブルトマンに傾倒していた人でもある。乗り越えていくべきものがあるようだ。