本の覚書

本と語学のはなし

イエスの時/大貫隆

イエスの時

イエスの時

▼『イエスという経験』の続編。そこで取り上げられたイエスの「全時的今」という時間論について、パウロやベンヤミンとの関係性をアガンベンを介して考察する。というか、アガンベンベンヤミンにおけるパウロの影響を論じているようなのだが、大貫は更に一歩踏み込み、恐らくはベンヤミン本人も意識していなかったであろうイエスとの親近性を探ろうとしているのである。
▼そんなわけで、前著よりもずっと難しい内容になっている。新約学者というよりは、段々と思想家あるいは神学者としての大貫が姿を現すのだ。


▼私にとって一番刺激的であったのは、原始エルサレム教会の贖罪論的キリスト信仰とパウロの十字架の神学は別物だという指摘である。

 原始エルサレム教会の贖罪信仰においてイエスの死がどのように意味づけされていたか、ここでもう一度思い起こそう。イエス・キリストレビ記16章15-16節の贖罪の雄山羊として円(モーセ律法)の内部に留まっている。それによって不特定多数の「罪」(律法違反)を犯した者も、その「罪」を帳消しにされて、同じ円の中に留まることができる。ところがパウロの場合には、イエス・キリストは律法によって「呪われた」者として、円の外側に捨て去られ、もはや円の中に戻る道はない。しかも、それが神自身の行動だというのである。神が自分の独り子を円の外側に棄却した行動は、神が自分自身を棄却した行動だとも言えるわけである。(p.160)

▼原始エルサレム教会の贖罪信仰では、イエスの死はモーセ律法内の諸々の罪(複数)を棄却するものであった。しかし、パウロにおいては、キリストの十字架によってモーセ律法の呪いが罪(単数)として棄却され、アブラハムの無条件な信仰が前面に押し出される。
▼だがそれは、モーセ律法が新たな相の元に成就する契機でもあった。

参照記事


▼『イエスという経験』を読了した時の記録。

▼『イエスという経験』は昨年岩波現代文庫から復刊された。



レビ記とキリストの贖罪論について。

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