本の覚書

本と語学のはなし

グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉/筒井賢治

グノーシス (講談社選書メチエ)

グノーシス (講談社選書メチエ)

旧約の神≠新約の神?

 旧約の神と新約の神とは果たして同じものなのだろうか。もちろん「同じ」と答えなくては、キリスト教徒であるとは認められない。しかし、初めて聖書を読んだ時の素直な感想を素朴すぎるとして恥じる必要はない。古代においても、必ずしも自明のことではなかったのだ。
 世界を創造した旧約の神は悪神である。そうグノーシス主義の人々は考えた。そもそも旧約の神は無から世界を創造をしたのだろうか。何らかの素材が初めから存在していたのを、今ある形に世界を作っただけではないのか。
 そうでなければ、なぜ男を作るのに土の塵を必要とし、女を作るのに男の肋骨を必要としたのだろうか。
 洗礼者ヨハネはなぜ、神はアブラハムの子らを石ころからでも作ることができるなどと口走ったのだろう。なぜむしろ無からでも作れると言わなかったのだろうか。

3つの教説

 彼らの神話には幾つものバリエーションがある。この本で紹介されるのは、2世紀に活躍したウァレンティノス派プトレマイオス、バシレイデース、そしてマルキオンの代表的な教説である。
 プトレマイオスが考えるのは至高神からの流出という下降型。バシレイデースの場合は、「存在しない神」が落とした種子が上に向かっていく上昇型。いずれにしろ、人間には神的な部分として霊的なものを授かっており、その本来的自己のためにその部分だけが救われる。
 マルキオンは特殊で、彼の神は元来人間には縁もゆかりもない。ただ純粋な愛によってのみ人類を救済しようとするのであって、異邦型とでもいうべきものである(これらの型は私が勝手につけた名前である)。

グノーシスの定義

 結局何がグノーシスであるかと言えば、完全な定義はないのだけど、1966年にシチリアで開かれた学会で用いられた定義がある程度有効だろうという。

①反宇宙論的二元論
②人間の内部に「神的火花」「本来的自己」が存在するという確信
③人間に自己の本質を認識させる救済的啓示者の存在 (p.184)

 つまり、①至高神と創造神は別物で、この世界は後者による駄作である。しかし、②人間には至高神に由来する霊的なものが存在する。そして、③救済者によるその認識(グノーシス)によって、我々はその霊的な部分において救済される。
 ただし、マルキオンのように異邦の神を想定すると、我々には至高神に由来するものは何もなくなってしまう。したがって定義②を満たさない。定義が完全ではない所以である。

マルキオンの聖書

 マルキオンは彼らの教派において正典を制定した。ルカ福音書パウロの手紙の一部を彼の流儀で改変したものである。当時、正統教会ではまだ正典を定めてはいなかった。

つまり、キリスト教の歴史で、文書を決定してそれを信仰の基準にするという方法を初めて導入したのが、まさにこのマルキオンであり、マルキオン聖書だったのである。正統多数派教会は、その具体的な中身はもちろん受け付けなかったけれども、コンセプトそのものは、それを自分のものとしたのである。(p.170)

 マルキオンの聖書が、正統教会の正典確定に大きな影響を与えたのである。

グノーシスの系譜

 ユダヤ教の中では、ヘレニズム期に盛んになった「黙示」と「知恵」の思想がグノーシス主義の母体になったとも考えられる。
 新約聖書の中では、パウロに敵対し死者の復活を否定する人々が、霊的な復活を説くグノーシス主義の先駆けであるかもしれない。またヨハネ文書には光と闇の二元論が色濃く打ち出されており、ここにも(正典の中に!)グノーシス主義の萌芽を見出すことができるかもしれない。
 3世紀に入ると、キリスト教の異端に属していたマニが、イラン系の宗教や仏教なども取り入れつつ、マニ教を創始した。これもグノーシス主義との関連は否定できない。なお、アウグスティヌスも若い頃はマニ教徒であった。
 東欧・ロシアのボゴミール派やその影響下に発生したとされる南欧カタリ派も、この系譜に入れられるようだ。