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目からウロコ ゆるしの秘跡/来住英俊

目からウロコ ゆるしの秘跡

目からウロコ ゆるしの秘跡

  • 作者:来住 英俊
  • 発売日: 2003/03/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 仮に私が教会に戻ったとしたら、一番困るのがゆるしの秘跡だろう。いったい何を告白していいのだか分からない。信心が足りないだとか、ゆるしの秘跡を受ける気にならないだとか、それくらいのことしか言えそうにない。
 著者もこの秘跡のあり方はもう一度考え直す余地があると考えているようだが、この本ではそのような提言は行わず、要点さえ押さえれば今のままでも相当役立つという立場を取っている。

告白すべき罪

 では、何を告白するべきか。生活の状態や習慣ではなく、具体的な個々の行為を話すべきである。個々の行為は、損害の観点から見るのでなくてはならない。がどのような損害を生じ、誰を傷つけたのか。それを見極めなくてはただの「後悔」でしかなく、「痛悔」には至らない。「痛悔」しないような罪は、ゆるされてもあまり意味がない。

罪を糾明する方法

 どのように罪の糾明を行うべきか。自分の罪意識から始めると、大概の人は告解に行くほどの罪など犯していないと考えがちである。そんな時は、自分の心の中を覗くのではなく、自分の周囲に苦しんでいる人はいないかと観察することから始めるとよい。手順は以下の五段階になる。

 1 自分の生活圏内をよく見つめる。(家庭、職場、教会など)
 2 そこに苦しんでいる人が見えるか?
 3 誰が、どんな苦しみを負っているかを具体的に考える。
 4 その苦しみと自分はどうかかわっているか?
   自分の行動も彼の苦しみの原因になっているのではないか?
 5 それを自分の罪と認めるか? (p.40)

 あるいは共同体の弱さから出発する。これも五段階の手順で考える。

 1 自分の小教区(修道会)の現実を見つめる。
 2 それは「世の光」となっているか?
 3 もしそうでないなら、何が弱いのか?
 4 弱い部分を自分の行動がさらに弱くしているのではないか?
   自分の行動で少しは強くできるのに、そうしようとしてこなかったのではないか?
 5 それを自分の罪と認めるか? (p.48-49)

何を与えてくれるのか

 著者によれば、小さな罪でも積み重なれば「交わり」の力が衰退してゆくという。カインが、アベルの所在を尋ねる神に対して「知りません。私は弟の番人でしょうか」と答えたときのように、人とつながり交わる能力が失われてゆく。
 罪はゆるされても、罪の結果は厳として残る。これは動かせない。しかし、ゆるしの秘跡は「交わり」の力を回復させるだけの力はある。しっかり頭をあげて歩んでいく助けになるというのである。

実践

 ゆるしの秘跡の進行は祈りの本にも書かれているから、だいたい想像できるが、どのような償いの指示があるのかは知らなかった。幾つかの理由によって、ほとんどの場合は主の祈りやロザリオなどの祈りを唱えるよう言われるようだ。著者は特に「とりなしの祈り」(ある人のために神の恵みを求める祈り)を勧めている。


 告解する方も大変だが、聴く方の司祭もなかなか大変だ。