本の覚書

本と語学のはなし

「自負と偏見」始めました


 現状ではフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』を読み続けるのは難しいだろうと判断し、いったん中断して、オースティンの『自負と偏見』を読むことにした(ペンギン・ポピュラー・クラシックス版)。
 長いことは長いけど、文章は簡単そうだ。新潮文庫中野好夫訳もほとんど見ずに済ませられるかもしれない。
 冒頭部分を書き抜いておく。

 It is a truth universally acknowledged, that a single man in possession of a good fortune must be in want of a wife.
 However little known the feelings or views of such a man may be on his first entering a neighbourhood, this truth is so well fixed in the minds of the surrounding families, that he is considered as the rightful property of some one or other of their daughters. (p.5)

 独りもので、金があるといえば、あとはきっと細君をほしがっているにちがいない、というのが、世間一般のいわば公認真理といってもよい。
 はじめて近所へ引越してきたばかりで、かんじんの男の気持や考えは、まるっきりわからなくとも、この真理だけは、近所近辺どこの家でも、ちゃんと決まった事実のようになっていて、いずれは当然、家のどの娘かのものになるものと、決めてかかっているのである。(p.5)


 あれこれ手を出すのはやめておこう。ギリシア語、ラテン語、ドイツ語、日本の古典からはもう撤退してもよい。
 フランス文学は読まなくてはならない。学生時代のある時期から、文学のフランス語は折に触れて私を慰めてきた。今もまた、ゾラのフランス語にどれほど助けられていることだろう。
 英米文学も読み続けたい。特に私の好みはイギリス文学の方に傾いている。問題はタイムとの両立が難しいということ。タイムを取るなら文学は棄て、文学を取るならタイムは棄てるべきか。結論はまだ出ない。
 このところ精神的な盛り上がりに欠けるのは、読書量がミニマムであるからに違いない。日本文学や外国文学の翻訳を読みたいところだが、英語で英米文学を読むならそんな時間はない。英語学習はタイムで済ませるなら、なんとかその時間を捻出できるかもしれない。英米文学かタイムか、それはつまり、英米文学かタイムと和書かという選択である。
 歴史と数学の参考書はしばらく続ける。来年度以降も講師を続けるかどうか分からないけど、中学の数学も教えることができるようにはしておきたい。ところで、以前履歴書を送った塾のホームページから、新人講師の名がひとつ消えた。ハローワークでは新たな募集がかかっている。講師のデビューはなかなか難しい。