本の覚書

本と語学のはなし

『リルケ詩集』


●『リルケ詩集』(高安国世訳、岩波文庫
 『ドゥイノの悲歌』だけでは分からない詩人の全体像を見ることができる書。訳者の好みを反映して、『オルフォイスに寄せるソネット』は全篇収録、後年のフランス語詩からも多く紹介されており、あまりにも重苦しい『悲歌』すらこの中に配置されれば(第1と第9を収録)感嘆せずに読むことはできない。解釈から解放してゆっくり繰返し読むことの効用でもあるだろうけど。

沈黙。沈黙すること深き者は
言葉の根に生き当たる。
かくていつの日か、めざめる
一字一字は勝利となる、
 ファネット・クラヴェル夫人に, p.234


 私は晩年に作られたフランス語詩を愛する。『ドゥイノの悲歌』によって日常の意味連関を断ち切り無効化する純粋な連関に目覚めた詩人ではあったが、しかしそれを語る言葉はモノトーンになるのが宿命である。一度勝ち取られた勝利に拘泥することは、詩人の死を意味するであろう。むしろ、そこからのみ詩人の歩みはようやく始まるのかもしれない。

わたしはただ一つの教訓しか望まぬ、――自分自身の
なかにふたたび落ちてゆく噴水よ、それはおまえの訓(おしえ)、――
地上の生への、天空からの回帰を
なしとげねばならぬ果敢な水の訓。
 噴水, pp.260-1


 だが、深く深く事物の奥底を覗いてみたことのある者だけが、不思議に穏やかで清澄な軽やかさを手に入れることができるに違いないのだ。

風の吹き荒れた一日のあと、
はてしれぬ平穏のなか、
夕ぐれは聞き分けのいい恋人のように
仲直りしておとなしくなる。


すべてはしずけさ、明るさとなり……
ただ地平には
金色に照らし出されて
雲の美しい浮彫が積み重なる。
 風の吹き荒れた……, pp.271-2


 そこにはもはや、詩に読まれることに気負い立ち、まがまがしい委託の妖気を発する自然などはない。詩人もまた衒いもなく没落に生きることだろう。

泉の水をのむ馬、
落ちる途中、わたしたちにふれる木の葉、
うつろなて、あるいは、わたしたちに
話しかけようとして、しかねている口、――


それらはみな、渇きをいやす生のさまざまな変化、
まどろむ苦痛のさまざまな夢。
おお、心やすらかな人があるなら
生けるものを捜し、それをなぐさめるがいい。
 泉の水をのむ馬……, p.268


 これで10日間にわたったリルケ特集も終了。結論は最初に『マルテの手記』を読んだ時にほぼ出ていたのだが*1、最後にフランス語詩に出会ったのは想定外の喜びであった。リルケとともに多少とも苦しい道のりを辿った甲斐があったというものだ。
 リルケは薔薇の棘に傷つき死んだという(「若き女性への手紙」には屋敷に薔薇を移植したという話が出てくるが、それが後に彼の命を奪ったことになる)。しかし、そんな伝説から想像されるような心をとろかすような甘い詩人ではない。感覚を思想にまで昇華する人であったからこそ、森有正をも虜にしたのだ。私にはむしろ思想の匂いがきつすぎると思われるくらいだが、この『リルケ詩集』はリルケが最後に至った軽みの境地をも証言してくれるだろう。


リルケ詩集 (岩波文庫)

リルケ詩集 (岩波文庫)

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